後に世界唯一の航空戦艦となる旧日本海軍の戦艦「伊勢」が、1916年の今日進水しました。大砲も備え航空機も発進できる――最強の軍艦のように思えますが、真相はどうだったのでしょうか。

航空戦艦として竣工したわけではない

大砲を備え、さらには航空機の離着艦もできる――戦艦に航空母艦の機能を追加した「航空戦艦」は、果たして最強だったのでしょうか。本日は旧日本海軍航空戦艦「伊勢」が進水して107年の日です。もっとも、当初は戦艦として竣工しています。

計画では、「伊勢」は扶桑型戦艦として竣工する予定でしたが、予算の関係で建造が遅延。扶桑型の欠陥点を修正する形で設計変更が加えられ、伊勢型戦艦の1番艦となりました。ちなみに2番艦は「日向」です。竣工時は全長約210m、基準排水量3万5000トンあまりにして、35.6cm連装砲塔を6基備えていました。これは長門型戦艦が登場するまで日本最大級でした。

その後1930年代に近代化改修を受けます。魚雷に対する防御力の向上、装甲の増加などが施されました。実戦へ投入されるのは1941(昭和16)年12月、太平洋戦争開戦の契機となった真珠湾攻撃でした。ただし空母部隊による航空攻撃が成功したため、「伊勢」はアメリカ軍と交戦することはありませんでした。

翌1942(昭和17)年6月、勝敗の転換点ともいわれるミッドウェー海戦で日本は空母を4隻失うと、旧海軍では空母の増強が急務となります。その際、短期間で空母戦力の穴埋めをするために白羽の矢が立ったのが、すでに旧式艦になりつつあった「伊勢」(と「日向」)でした。

当初は空母に改装される計画もあったものの、時間的な都合から船体後部のみの改修とされ、第5、第6砲塔を撤去して飛行甲板とカタパルトを設置。こうして1943(昭和18)年、「伊勢」は「日向」とともに、世界でもほかに類を見ない航空戦艦へ姿を変えたのです。運用できる航空機数は22機とされました。

航空+戦艦、実際にはどうだった?

しかしながら実際に運用すると、主砲の射撃時は飛行甲板が使えない、敗色濃くなる中そもそも搭載する艦載機がないなど、「伊勢」は想定された実力を十分に発揮できなかったといいます。戦力的に中途半端になってしまい、その後も最前線に投入されることはほとんどありませんでした。

1944(昭和19)年10月、「伊勢」はレイテ沖海戦に参戦。しかし広い面積を有する飛行甲板を用いて物資運搬に従事するくらいで、大きな戦果を挙げることなく日本本土へと戻ってきます。この海戦で日本は空母4隻、ほか艦艇も多数失い、海軍機動部隊は事実上、壊滅しました。

1945(昭和20)年に入ると、日本はもはや防戦一方の状況でした。本土にはアメリカ軍爆撃機が幾度となく襲来します。「伊勢」はといえば燃料が欠乏し、広島県の呉軍港に留め置かれていました。船体後部に広がる飛行甲板には対空兵装が増設され、専ら砲台のようでした。

終戦直前の1945(昭和20)年7月末、呉は大規模な空襲を受けます。回避行動のとれない「伊勢」は格好の標的となり、10発以上の爆弾が命中。浸水し大破着底しました。傍らにいた「日向」も同じ運命でした。

終戦後、2隻とも浮揚ののち解体されました。ちなみに「伊勢」は浮揚後しばらくのあいだ、外地からの引揚者の住宅として艦内が使われたことがあります。さて、こうして消滅した航空戦艦でしたが、戦果を挙げたことはほとんどありませんでした。間に合わせであれ、航空機を運用できる艦を保持しておきたいという軍部の考えで生まれた軍艦といえそうです。

戦艦時代の「伊勢」。1939年5月撮影(画像:アメリカ海軍)。