日清戦争日露戦争に続き、第一次世界大戦でも連合国側として勝利を収めた日本。大戦後、欧米諸国は“強くなりすぎた”日本を警戒し、次々と「理不尽すぎる条約」を結んでいきました。『大人の教養 面白いほどわかる世界史』(KADOKAWA)の著者で河合塾講師の平尾雅規氏が、第一次世界大戦後の欧米諸国の動きについて解説します。

「国際連盟」設立も、3国不参加でグダグダに

国際平和の維持を目的として、第一次世界大戦後に設立された国際連盟。従来のヨーロッパ諸国は、自国の軍備を強化したり同盟国を増やして、ライバルに「これは勝ち目がないや…」「簡単には勝てないぞ…」と思わせる手法で戦争を抑止しようとしてきました

※ これを個別的安全保障という

でも、ひとたび戦争が起これば強大な軍備や同盟網のせいで甚大な被害をもたらしてしまいます。それが未曾有の規模となったのが第一次世界大戦でした。

「集団安全保障体制」を理念とし、平和維持を目指した

低いリスクで戦争を抑止できないか? という知恵から生まれたのが集団安全保障体制です。まずA~Gの7カ国が相互に侵略しないことを約束(図表参照)。

ここで仮にEがDへの侵略を企てたとしましょう。そうなった場合、E以外のACDFG全員がEへの制裁を発動させます。E国は「1対6では勝ち目がない…」と考えて侵略を思いとどまる。このシステムは、他の加盟国が全員味方になってくれる※1ので、個々の国々は過度の軍拡※2をする必要がないのが魅力。

※1 加盟国が多いほど抑止力が高まる

※2 最低限の軍備は必要

主要国3国の不参加などの問題点により、「集団安全保障体制」が機能せず

この画期的なシステムが理解できると、同時に国際連盟の問題点が見えてきます。まず侵略国に対して、最大の抑止力となる軍事制裁を課せない…。スポーツで例えるなら、「レッドカードが存在せず退場処分にならないから、反則やりたい放題!」みたいなものですね。

※ 経済制裁や外交的制裁のみ

次に、加盟国グループにドイツロシア※、さらにはアメリカが参加していない(構想を立ち上げた民主党ウィルソンに対して、当時上院で多数派だった共和党が反対し加盟できず)。

※ 両国を仲間外れにするヴェルサイユ体制の方針による

これら大国に「侵略をしません」と約束させられないのは不安ですし、侵略国を抑える際の仲間にできないのは心細い。また全会一致が原則なので、制裁の詳細をなかなか決められませんでした。

“ちょっと、強くなりすぎだぞ”…欧米諸国が日本を牽制

ワシントン会議…米、英、日、仏、伊、蘭、中、ポルトガルベルギーが参加

一方、極東における戦後の秩序は、1921年に開かれたワシントン会議で規定されました(ワシントン体制)。その主眼は日本を抑え込むことです。

近代日本は日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)、第一次世界大戦(1914~18)と全て勝利。特に大戦では、ヨーロッパ諸国が総力戦で疲弊するのを尻目にドイツ植民地を占領しました。

戦後、英仏米らは「ちょっと日本が強くなりすぎだぞ」と極東の勢力図が一変したことに懸念を抱き、会議に至りました。

まず、太平洋の利害調整をした四カ国条約では日英同盟が解消されました※1。当然日本にとっては痛手。九カ国条約をうけて、大戦中に抜け駆けした日本がドイツから奪った山東権益が返還される運びとなりました(二十一カ条の要求※2もほぼ廃棄)。

※1 「四カ国で協調=日英だけの同盟は不要」というニュアンス

※2 山東権益の譲渡などを求めていた

また大戦で疲弊した諸国が海軍の維持費に苦しんでいたことを背景に、ワシントン海軍軍備制限条約が結ばれ、日本の主力艦の保有比率は米英の6割に規定されました。

日本にとってポジティヴに考えるならば「軍事費が節約できるし、大国アメリカの6割なら上出来だ」。一方、ネガティヴ思考なら「我が日本海軍は永久にアメリカに追いつけないではないか!」となります。

日本軍部には、やはり後者の考えを持つ人が多かったようですね。

平尾 雅規

河合塾

世界史科講師

(※写真はイメージです/PIXTA)