稲垣吾郎、新垣結衣が共演する「正欲」が公開されている。ある特異なフェティシズムが、作品のベースにある。それは、性的な意味に捉えられている。実際にあるのかどうか。その性癖を抱える人(たち)を中心にした話である。

 生きることの息苦しさという言葉はよく言われ、よく使われる。映画でもこれまで、多方面から描かれてきた。本作で描かれる息苦しさの形が興味深いのは、今風の言葉で言えば「多様性」を帯びているからだ。

 特異なフェティシズムを抱える人は、周囲となかなか分かり合えない。映画は、そこを重点的に描く。とともに、別の理由から、自身でも気が付かないうちに、息苦しさを感じ始める人も登場する。どちらも、人とのつながりが難しくなる。

 本作では、後者の人物像に方に、特に惹かれた。「普通さ」をやけに強調する検事・寺井啓喜で、稲垣吾郎が演じる。登校を拒否し始める小学生の息子をめぐって、父・啓喜と母・由美(山田真歩)は離反していく。

 両者それぞれに、言い分がある。父からすると「普通」に小学校に行ってほしいと思い、息子が執着するユーチューバーの道に不安感を持つ。母はその自由な生き方を尊重すべき、との考えだ。

 妻とは息子の一件がなくても、すでに亀裂が生じている。言葉少ない仕事の同僚(宇野祥平)も、彼とは微妙な距離感を持つように描かれる。啓喜は自身では認識していないようだが、孤立感のただ中にいる。

「普通さ」にがんじがらめになっている啓喜は、本作では丸裸になったかのように、周囲と協調できない。だから映画の中で彼は、「マイノリティー」になっている感がある。「普通」が「マイノリティー」なのだ。ここに本作の逆転劇の意味、すなわち面白さがある。

 稲垣が出色の演技を見せる。「普通さ」に全身を委ねながら、内面がしだいに壊れていくエリートを、実に的確に演じているのだ。否、的確といったら、少しニュアンスは違う。

 自身でも、その崩壊の形がわからないままに、どこかおかしいとは感じている。その微妙な変化のニュアンスが、稲垣の微細な演技の襞(ひだ)から、立ち上ってくるようであった。

 多面的なテーマを持つ本作だが、「普通さ」の崩壊を描いた作品とも言ってしまいたい。それは存在にどんどん重しがかかり、最後までその理由がわからない「普通人」に徹した稲垣の、卓抜な演技力のゆえである。

 映画賞レースも始まってきたが、今年の主演男優賞候補だと思う。

(大高宏雄)

映画ジャーナリスト。キネマ旬報「大高宏雄のファイト・シネクラブ」、毎日新聞「チャートの裏側」などを連載。新著「アメリカ映画に明日はあるか」(ハモニカブックス)など著書多数。1992年から毎年、独立系作品を中心とした映画賞「日本映画プロフェッショナル大賞(略称=日プロ大賞)」を主宰。2023年には32回目を迎えた。

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