雨ニモマケズ、風ニモマケズ”……で有名な宮沢賢治。ストイックで献身的なイメージがあるものの、実は“ブレブレな一面”があったと、『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』(実務教育出版)の著者で偉人研究家の真山知幸氏はいいます。つい、自分に厳しくなってしまう現代人にこそ知ってほしい、文豪の“逃げエピソード”をみていきましょう。 

ムラッとしたら山野を歩いて…「禁欲主義」を目指した宮沢賢治

<略歴>1896年~1933年岩手県生まれ。盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として教鞭をとりながら、多くの詩や童話の創作を行う。退職後は羅須地人協会[らすちじんきょうかい]を開き、青年たちへの農業の指導に打ち込んだ。代表作に『雨ニモマケズ』『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』など。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ」のフレーズそのままに、童話作家の宮沢賢治には「逃げる」というイメージはなく、むしろ困難に立ち向かっていく意志の強さをひしひしと感じる。 

童話のイメージが強い賢治だが、生前は相手にされていなかった

資産家の家に生まれた賢治は、家業がどうしても好きになれず、関心のある農業の道へ。盛岡高等農林学校に首席で入学。在学中も勉強に打ち込んだ。卒業後は就職せずに、研究生として地質の調査を担当している。

体の不調によって調査は断念するものの、その後は花巻農学校で4年にわたって教師を務めた。退職後は、私塾「羅須地人協会」を開設。青年たちへの農業指導に打ち込んだ。

そうして農業に情熱を燃やす一方で、賢治は童話の執筆も行っている。しかし、出版社に売り込んでも相手にされず、生前に受け取った原稿料はわずかに5円(現在の約2万円弱とされる)だったという。

それでも書き続けた作品は死後に高く評価され、時代を超えて読み継がれている。「少しでも理想的な人生にしたい」という思いが強かった賢治。学生たちにこう語った。

性欲、労働、頭脳の3つは両立しない。だからいずれかを犠牲にしなければならない

賢治自身は性欲を犠牲にして、禁欲主義を実践しようとした。女性を遠ざけつつ、性衝動が起きたときは、ひたすら山野を歩いて解消したという。なんというストイックさ……。

恋愛感情完全拒否!顔に泥を塗って、逃げた

しかし、自分から求めずとも、異性と自然に親しくなることもある。賢治は30歳で花巻農学校を退職。自宅で羅須地人協会を設立すると、ひとりの女性が頻繁に訪ねてくるようになった。彼女は、賢治が村で稲作作業を指導したときに知り合った、小学校の女性教員だった。

よほど賢治に惹かれるものがあったらしい。ひとりで暮らす賢治の家を訪れては、掃除や洗濯、買い物など身のまわりの世話をしはじめた。

最初こそ賢治も喜んで彼女を迎えていたが、相手が自分に恋愛感情があり、しかも結婚を望んでいるらしいとわかると、急に遠ざけたくなってきた。なにしろ、賢治にはまったくその気はない。すぐにでも逃げ出したかったが、自分の家にやってくるので、逃げようもない。彼女は1日に3回もやってくる日さえあったという。

そこで賢治は「不在」と書いた立て札を門のところに立てたばかりか、顔に炭を塗りたくって病気のふりをして、彼女からなんとか逃れようとしたという。すごい逃げ方である。

生涯独身を貫いた賢治。だが、それでも決心が揺らぐこともあり、たびたび恋愛しては結婚を考えることもあった。どんな相手が理想だったのか。親友にこう語ったこともある。

新鮮な野の食卓にだな、露のように降りてきて、挨拶をとりかわし、一椀の給仕をしてくれ、すっと消え去り、また翌朝やってくるといったような女性なら、僕は結婚してもいいな」……そんな都合のいい相手はいません。

“ビフテキ、うまそう”…「菜食主義」も中途半端だった

また賢治は菜食主義を貫こうともした。きっかけは、盛岡高等農林学校にいた頃で、牛の解体実験を見てから、肉食をやめるべきだと考えたようだ。研究生になる頃には、徹底したベジタリアンとしての思想を持っており、親友への手紙でこんな問いかけをした。

酒を飲み、常に絶えず犠牲を求め、魚鳥が心尽くしの犠牲のお膳の前に不平を言う。これを命とも思わないで、まずいのどうのと言う人たちを、食べられるものたちが見たらどう言うでしょうか

“燃えるような生理的な衝動を感じない”…あっさりベジタリアンをやめた

賢治は精進料理や、粥や焼き芋、ゆでたジャガイモなどを食べながら、ベジタリアンであろうとしたが、結局は肉食をやめることはできなかった。賢治は「私の感情があまり冬のような具合になってしまって燃えるような生理的な衝動を感じない」と言うと、あっさり肉に手を出している。

花巻農学校で教師をしていた頃には、普通に肉を食べるようになっていたようだ。校長のでかいビフテキ弁当を見て、賢治は同僚にこうこぼしている。「われわれも、いっぺんでも、ああいうものをお昼のお弁当に食べたいものだ

独身主義でありながら時には結婚を考えて、菜食主義でありながら「肉食べてえ」ともだえる賢治。晩年には禁欲主義さえも揺らいでいた。賢治は友人に、男女が絡み合う浮世絵のコレクションを見せながら、こう嘆いたという。

禁欲はけっきょく何にもなりませんでしたよ。その反動がきて私は病気になったのです

ストイックな賢治すらも、自分との約束事から逃げてしまうことがある。だから、たとえ自分の主義が貫けなくても、がっかりすることはない。大切なのは、逃げてしまう自分を受け入れて、それでもなお前を向いて、自分に期待し続けること。

「今度こそは大丈夫」「あ、やっぱりまたダメだった」……そんなことを繰り返しながら、少しずつ上向いていくのが、人生ではないだろうか。賢治もきっと応援してくれるはずだ。

真山 知幸

著述家、偉人研究家

(※写真はイメージです/PIXTA)