文=鷹橋 忍 

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 大河ドラマ『どうする家康』では、ついに家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。だが、家康を支えてきた家臣たちのなかには、それを見届ける前にこの世を去った者も少なくない。

徳川四天王」に数えられる、大森南朋が演じた酒井忠次も、その一人である。今回は、その酒井忠次を取り上げたい。

 

酒井氏と松平氏の関係は?

 酒井忠次と家康は、祖を同じくするといわれる(煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』)。

 酒井家の初代・酒井広親は、松平氏の家祖とされる松平親氏と、酒井家の娘の間に生まれたと伝えられるという(『三河物語』)。

 しかし、新井白石が編纂した諸大名の家伝集『藩翰譜』に、「先祖の事詳かならず。世に伝ふる所、異説まちまちなり」——すなわち、「酒井氏の先祖のことはよくわからない」とあるように、その系譜は不明な点が少なくなく、酒井広親が松平親氏の庶子であったという伝承の真偽も定かでない。

 とはいえ、酒井氏は古くから松平氏と繋がりがあったとみられ、松平氏の「最初の家臣」とも伝えられる。

 やがて酒井氏は、雅楽頭家と左衛門尉家の二系に分かれた。忠次は、左衛門尉家の流れをくむ。

徳川四天王の最年長

 酒井忠次は大永7年(1527)に、三河国で生まれた(『寛政重修諸家譜』)。

 家康より15歳、山田裕貴演じる本多忠勝杉野遥亮が演じる榊原康政より21歳、板垣李光人演じる井伊直政より33歳年上である。

 徳川四天王の一人といっても、酒井忠次は他の三人と世代が異なるのだ。

 忠次は、飯田基勇が演じた松平広忠(家康の父)の代から、岡崎松平家の重臣であった。

『寛政重修諸家譜』によれば、天文18年(1549)3月に松平広忠が死去した後、家康が野村萬斎演じた今川義元の庇護を受け、駿河国府中(駿府 静岡市)で生活することになった際に、忠次も旧臣ともに随従し、駿府に住したという。

 

家康の叔母を妻に迎える

 永禄3年(1560)年5月に起きた「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると、家康は本領の三河国岡崎(愛知県岡崎市)に戻った。そして、今川氏から独立し、織田信長と同盟を結んで、三河国の平定を果たしている。

 この三河平定戦において、忠次は重臣筆頭として活躍した。

 永禄7年(1564)、東三河の今川家の拠点・吉田城(愛知県豊橋市)攻めにおいて、忠次は先鋒を務めている。

 吉田城が陥落すると、忠次は吉田城代に抜擢され、家康から東三河の統治を任された。

 永禄4年(1561)、忠次は妻を迎えている。

 ドラマの忠次の妻は、猫背椿が演じる「登与」であったが、『寛政重修諸家譜』によれば、忠次の妻は「碓井姫」といい、家康の祖父・松平清康の娘(家康の叔母)である。

 碓井姫ははじめ、長沢松平家の松平政忠の妻であった。

 ところが松平政忠は、桶狭間の戦いで討死したため、碓井姫は忠次に、再嫁することとなったという。

 碓井姫の実名は、不明である。忠次が吉田城に居を移すと、「吉田姫」と称され、天正18年(1590)に、忠次の子・酒井家次が下総臼井国に転封となると臼井城に移り、「碓井(臼井)姫」と称された(致道博物館編集『時を刻む―酒井家庄内入部四〇一年特別展 徳川家康酒井忠次』)。

 この結婚により、忠次は家康と姻戚関係で結ばれた。家康の忠次への信頼の証だろう。

 家康の信頼に応えるように、忠次は家康を支えていく。

京都で死去

 忠次は、浅井・朝倉連合軍と対決した元亀元年(1570)の「姉川の戦い」、阿部寛が演じた武田信玄に大敗した元亀3年(1772)の三方原合戦、眞栄田郷敦が演じた武田勝頼の軍勢と戦った天正3年(1575)の長篠合戦で、先鋒を務めた。

 豊臣秀吉との直接対決となった小牧・長久手の合戦では、城田優が演じた森長可の軍勢を破っている。

 忠次は武勇のみならず、武田氏、上杉氏、北条氏などの有力な戦国大名との外交面でも手腕を振るい、織田信長豊臣秀吉にも、その実力を認められていた。

 まさに三面六臂の活躍で家康を支え続けた忠次であるが、天正16年(1588)10月、数え年で62歳のときに、家督を嫡男の酒井家次に譲り、秀吉から与えられた京都櫻井の邸に隠居した。ドラマでも描かれたように、晩年は目を患っていたという。

 そして、8年後の慶長元年(1596)10月28日、忠次はその地で死去している。

 

忠次は本当に「えびすくい」を踊っていた?

 最後に、ドラマで繰り返し描かれた忠次の「えびすくい」を取り上げたい。

 歌詞や振り付けは不明だが、忠次が、「海老すくい」を踊ったとする逸話は残っている。

 天正3年(1575)の「長篠合戦」に際して、徳川の軍勢は武田軍の猛勢に怖じ気づいていたため、家康は忠次に、海老すくいを舞うように命じた。

 忠次の海老すくいのおかげで一同は笑いに包まれ、武田軍への恐怖もいつの間にか消え去ったという(「東照宮御実紀」巻3 黒板勝美編『国史大系』第38巻所収)。

 また、「東照宮御実紀」巻5(『国史大系』第38巻所収)には、駿河太郎が演じた北条氏政の前で、忠次が「例の得手舞の海老すくひ」を踊り、氏政は太刀を「忠次に引る」と記されている。

『寛政重修諸家譜』にも、天正14年(1586)3月、北条氏政と伊豆国三島で会った際に、忠次は酒宴で「蜆(えび)すくひ」を披露し、氏政が悦びのあまり、一文字の刀貞宗の脇差しを授けたという記載がある。

 これらの逸話が真実だとしたら、酒井忠次は場を盛り上げ、敵も味方も惹きつける魅力的な人物だったに違いない。

【酒井忠次ゆかりの地】

●吉田城

 酒井忠次が城代を任された城。愛知県豊橋市今橋町の豊橋公園内にある。

 

●荘内神社

 初代・酒井忠次、二代・酒井家次、三代・酒井忠勝、九代・酒井忠徳を祭神とする神社。

 山形県鶴岡市にあった酒井氏の居城・鶴ヶ岡城の本丸御殿があった場所に鎮座する。

 酒井忠次の子孫は、三代・酒井忠勝にときに入部し、鶴ヶ岡城を居城として、この地を1871年の廃藩置県まで治めた。

 その後、酒井氏を慕う領民の心の拠り所として、荘内神社が明治10年(1877)に創建された。

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吉田城 写真=フォトライブラリー