陸上自衛隊初の国産戦車である61式戦車は、太平洋戦争終結後から約15年を経て制式化されています。しかし、よく見ると大戦中の日本軍戦車に通じる作りの箇所もいくつかあるそう。一見するとわからない内部は特にその傾向が強い模様です。

当初は25tクラスで企画された新戦車

陸上自衛隊初の国産戦車である、61式戦車が完成したのは1961(昭和36)年のこと。 それまで、陸上自衛隊アメリカ軍から供与されたM4中戦車M24軽戦車などを主力戦車として運用していましたが、日本人の体格に合わず、かつ中古品のために故障も頻発していました。

当時、アメリカ軍朝鮮戦争の戦訓などから、装備の更新を行っている最中で、戦車についてもM47M48といった新型はあったものの、それらは自軍向けのため、日本へ供与されることはないだろうと防衛庁(当時)や自衛隊の関係者は見ていました。加えてM47M48は、車体サイズの関係から日本国内の鉄道輸送が困難だったこともあり、日本の防衛関係者は、1955(昭和30)年に国産戦車(当初は「特車」と呼称)を開発することに決めました。

開発の中心を担ったのは、防衛庁の技術研究本部(現:防衛装備庁)ですが、戦前より旧日本軍の戦車を開発・生産していた三菱重工や、大砲の開発・生産を行っていた日本製鋼所などにも協力を仰ぎます。

新型戦車は、アメリカ軍M36駆逐戦車M48戦車、M56空挺戦車などを参考にしつつ、日本のインフラ状況に適合した戦車として、旧日本軍が開発した四式中戦車などで使われていた技術も盛り込むという、日米双方の技術を取り入れたものとなりました。

当初のコンセプトでは、主砲は四式中戦車の75mm砲と大差ない長砲身76mm砲を装備し、全備重量25tの軽量な戦車が想定されていました。これは、経済力がなく国内インフラが大重量の車両の行き来に対応していない当時の日本にとって、小型で数を揃えられる開発方針が魅力的だったからです。

しかし、朝鮮戦争では85mm砲を搭載したソ連製のT-34/85に、陸上自衛隊も保有する75mm砲装備のM24軽戦車では歯が立たなかった一方、90mm砲装備のM26中戦車でなら優勢に戦えたという戦訓から、90mm砲の搭載は必須となりました。

ただ、90mm砲を搭載したアメリカ製M36対戦車自走砲の試験を行うと、そのクラスの主砲を搭載するなら重量25tでは過小だと判断されます。その結果、新戦車は最低30tないと無理だとされ、最終的には車重35tへ変更されました。

超壕能力や最高速度は旧軍戦車と一致

試作戦車の開発は、車体と砲塔を三菱重工、主砲を日本製鋼所が担当しました。どちらも前出のように戦前から兵器を開発・生産していたメーカーであり、四式中戦車で使われた技術が随所に用いられていました。

なお、1950年代の他国戦車ではトランスミッションとエンジンを1つにまとめて後方に配置するパワーパック式が主流になりつつあったため、日本の試作戦車もそうしたかったようですが、当時の技術力では開発困難でした。

結果、車体後部に置かれたエンジンから前方にプロペラシャフトが伸ばされ、車体前部に置いた変速・操向機(トランスミッション)を通して前部の起動輪を駆動する配置が採用されています。これは、太平洋戦争時に日本が運用・生産した九七式中戦車一式中戦車三式中戦車四式中戦車などと同じ配置です。この構造だと車高が高くなり、整備性にも難がありましたが、やむを得ませんでした。

ちなみに変速・操向機は、試作当初こそトルク変換機付きの自動変速・操向機、いわゆるオートマチック変速機が搭載されていましたが、パワーロスが大きく、故障もしやすいとして開発は断念。次の試作車では四式中戦車に採用されたものと同じ、遊星減速歯車付きのクラッチ・ブレーキ式が採用されました。

この変速・操向機は四式中戦車の秘匿名称「チト」にちなんで「チト式」と呼ばれましたが、動力の伝達がスムーズに行かず故障しやすい問題をはらんでいました。そのため、アメリカ式の差動歯車を搭載した、二重差動式操向機が新たに開発され、これが採用されることとなりました。

エンジンは完全に新設計ですが、四式中戦車と合致する12気筒ディーゼルエンジンで、四式では計画だけだった過給機も搭載しており、560馬力を発揮できました。ちなみに四式中戦車のものは出力412馬力、過給機搭載で500馬力の予定だったといいます。

鋳造砲塔と鋼板溶接車体の組み合わせで、一部ボルト締めが残るところや、トーションバー方式の足回り、車体後方の排気ユニットの配置や形状などにも四式中戦車を始めとした旧軍戦車との共通点が見受けられます。

なお、61式戦車は超壕能力2.7m、最高速度45km/hですが、この性能数値は四式中戦車と全く同じで、そういった部分も共通点ということができるでしょう。

61式戦車誕生で断絶免れた日本戦車のDNA

開発するさい参考にしたM36駆逐戦車には砲塔後部に張り出し部分があり、ここを即用弾の搭載スペースにすることで装填速度を向上させていましたが、61式戦車もこれを踏襲しています。なお、四式中戦車も装填速度を重視して、65発の内の30発を砲塔後部に収納していたので、ある意味ここも旧日本軍との共通点といえるかもしれません。

主砲の61式90mm戦車砲は砲身長が52口径あるため、アメリカのM46M47戦車が搭載した50口径90mm砲M3よりも長砲身です。なお、薬室の強度も上回っていたため、威力の点でもM3より強いといわれています。

それでも、太平洋戦争終結から約10年が経過していたため、その間のブランクはいかんともしがたく新戦車の設計・試作は難航した模様です。それでも、関係者の努力によって、1960(昭和35)年12月には陸上自衛隊の新戦車として採用が決定。翌1961(昭和36)年4月には量産準備も整ったことにより、「61式戦車」として制式採用されました。

61式戦車は、部隊配備後も、現場の隊員から「ギアチェンジが難しく、世界一操縦が難しい」といわれたり、操縦席がエンジンの排熱で夏には70℃になったりと、問題がなかったわけではありません。

しかし、戦車技術で世界水準に引き離された旧日本陸軍とは異なり(旧日本軍最強といえる四式中戦車でも、ドイツやソ連の戦車には対抗困難)、曲がりなりにも同時期の他国戦車に対抗可能な国産戦車を作り上げたことは、大きな意義があったといえるでしょう。

74式戦車でなんとか世界に引き離されず、90式戦車で世界水準に並び、10式戦車では各種性能で世界を超えたと称される日本戦車ですが、その礎は61式戦車が作ったといっても過言ではありません。

ひょっとしたら敗戦によって断絶していたかもしれない我が国戦車開発の溝を、61式戦車が埋めたという意味で、同車が果たした意義は後の3戦車よりも大きいかもしれません。

陸上自衛隊の61式戦車。2色迷彩が施されるようになったのは1980年代以降のこと(柘植優介撮影)。