桃を煮るひと
『桃を煮るひと』(くどうれいん/ミシマ社)

 くどうれいん氏は2021年に小説『氷柱(つらら)の声』が芥川賞候補になり、児童書や歌集も手掛ける作家。そんな彼女の『桃を煮るひと』(ミシマ社)は5年ぶりとなる食にまつわるエッセイ集だ。程よく肩の力が抜けた文章が小気味よいのは過去作同様。シンプルでオフビート気味の筆致は読んでいて心地よく、胸のすく思いだ。

 著者が食に対して貪欲なのは明々白々だが、グルメや美食家というのとはちょっと違う。高値のものばかり食べているわけじゃないし、とりわけ舌が肥えているとも思えない。実際、俎上に載せられている食べもののほとんどが、たくあん、塩味おにぎり、ジャガイモみそ汁など、素朴な味わいのものである。

 それらを調理する過程と、実際に舌に乗せた際の描写が実に軽やかだ。ありふれた食べものの美味しさをこんな風に表現できる人が、果たしてどれだけいるだろう。近しい作風の漫画として、『花のズボラ飯』や『孤独のグルメ』などが挙がるが、くどう氏のチャーミングな性格や、起伏と抑揚に富む語り口は唯一無二だ。

 何を食べても何か思い出す、というのも本書の特徴だろう。個人的な記憶や感情が行間から滲み出ている。営業職と作家業を兼務していた頃を思い出す「カリカリ梅」、以前勤めていた会社の近くのコンビニを訪れ、会社員時代を追想する「あのファミチキ」。祖母がつけてくれるたくあんが故郷の寒さを想わせる「たくあんじゃんけん」。どのエッセイも生活感があってほっこりする。

 白眉は「ぶどうあじあじ」。焼肉を食べた帰りに飴をもらって食べた著者に、同行した男性はその味を評して〈ぶどうあじあじだよ。ぶどうじゃなく、ぶどう味の味がするの、わかる?〉というパンチラインを繰り出してくる。著者が小学生だった頃も駄菓子では、いちごあじあじやメロンあじあじを当たり前に食していた。それが、グミが流行った頃から、ガムもジュースもアイスも本物の味を求めて進化したため、今は「あじあじ」が希少になっているという。

 繰り返すが、くどう氏はいわゆる美食志向ではない。時たま、ネギは細く切れるほうが絶対いいというようなこだわりも散見されるが、それも自然に触れられる程度。やはり本書の真骨頂は、大好きな食事を作り、摂取している時の描写の鋭さだろう。例えばウニ。筆者はウニが苦手で食べられなかったのだが、以下の文章を読んで、もう一度挑戦してみたいと思った。

ああ! おいしい、おいしすぎる。毎年食べているのにはずなのに毎年めろめろになってしまう。舌の上のウニは口蓋に押されるとあっという間にふわっととろけてなくなってしまう。甘味と深いうまみが一瞬にして駆け巡り、最後に海の風を浴びたようなほんのすこしの磯の味である。

 表題作になった「桃を煮るひと」では、母が熟した桃をジャムにしようと鍋で煮詰める光景が、鮮やかに活写されている。そんなくどう氏は、ひとりでは外食できないそうだ。仕事先の知人などを誘うが、都合がつかなかったら、自分の読者を連れて外食をするという。その意味で、先述の『孤独のグルメ』とは設定が真逆だ。同作は、サラリーマンの井之頭五郎が、仕事の合間に立ち寄った飲食店での体験が描かれる。一方、『桃を煮るひと』は、誰と食べたのか? という要素が重要になってくる。

 なお、くどう氏の他のエッセイと読み比べると、彼女の生活様式が変わったことが想像できる。勤めていた会社を退職し、環境も大きく変わったのだろう。そして、夫となった「ミドリ」がさりげなく登場する。彼の影がふと見え隠れするような文章も、気取っておらずいいじゃないかと思う。

文=土佐有明

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焼肉の帰りにもらった飴はぶどう味の味がする〈ぶどうあじあじ〉。調理する過程と、舌に乗せた描写が軽やかで小気味良い食エッセイ集