「分け入っても分け入っても青い山」でおなじみの種田山頭火。季語や「5・7・5」にとらわれない「自由律俳句」の代表的俳人として有名な山頭火ですが、その放浪続きの人生もかなり“自由”だったようです。『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』(実務教育出版)の著者で偉人研究家の真山知幸氏が、つい自分に厳しくなってしまう現代人にこそ知ってほしい、文豪の“逃げエピソード”を解説します。

子が生まれても、死にかけても、得度しても…酒に溺れた山頭火

<略歴>1882年~1940年山口県生まれ。東京専門学校高等予科を経て、早稲田大学大学部文学科に入学するも神経衰弱で中退。帰郷してからは、荻原井泉水[おぎわら・せいせんすい]に師事し、自由律俳句を作りはじめる。実家の破産や父・弟の死をきっかけに42歳で得度(出家)し、各地を漂泊する旅に出る。句集に『鉢の子』『草木塔』など。

今すぐにでも現実逃避したいならば、酒を飲むのが手っ取り早い。とはいえ、漂泊の俳人・種田山頭火は、あまりに飲み過ぎた。山頭火は学生の頃から、酒にひたり、神経衰弱に陥った。

27歳のとき、父のすすめるままに資産家の娘・佐藤サキノと結婚。子どもも生まれたが生活は変わらず、山頭火は朝まで酒を飲み明かし、仕事にも身が入らないなか、俳句作りにばかり打ち込んでいた。

ついには実家が破産してしまい、父は愛人とともに家を飛び出す。母はといえば、山頭火がまだ小さい頃に、夫の芸者遊びを苦にして自ら命を絶っている。山頭火を育てた祖母も死に、さらに弟も自殺してしまう。山頭火は家庭について『砕けた瓦』でこう書いている。

「家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は砂漠である、とは思わざるをえない。親は子の心を理解しない。夫は妻を、妻は夫を理解しない。兄は弟を、弟は兄を、そして姉は妹を、妹は姉を理解しない」

山頭火は荒れた家庭生活のせいか、サキノの実家から離縁を迫られ、ふたりは離婚。離婚後も交流をもったが、山頭火は43歳のとき、サキノにも我が子にも行き先を告げず、流浪の旅に出るのだった。

昏倒するまでコップ酒を一気飲み…酒は“女性よりも大切なもの”だった

山頭火はコップ酒で一気飲みをするのが常で、飲み出すと止まらない。泥酔して昏倒するまでとことん飲んだ。

山頭火の身を案じたらしい知人が、機転をきかして山頭火を寺の和尚に預けている。山頭火は和尚の下で得度したが、酒をやめることはなかった。54歳のときにも泥酔し、無銭飲食をして警察に身柄を確保されてしまった。

酒に逃げることをやめられなかった山頭火。酒について『行乞記[ぎょうこつき]』で次のように記している。

「ああ酒、酒、酒ゆえに生きてもきたが、こんなものになった。酒は悪魔か仏か、毒か薬か」

少しは控えればいいのにと思ってしまうが、山頭火にとって酒は女性よりもはるかに大切なもの。日記でこんなことを書いている。

「私には女よりも酒が向いているのだろう! 女の肉体はよいと思うことはあるが、女そのものはどうしても好きになれない。女がいなくても酒があれば、米があれば、炭があれば、石油があれば、本があれば、ペンがあれば、それで十分だ!」

酒が山頭火の妻であり、恋人だった。

俳句を作りながら、死ぬまで放浪を続けた

山頭火は43歳のときに放浪の旅に出かけてから、死ぬまで放浪し続けた。といってもまったく帰ってこなかったわけではない。3年間放浪したのち、まず1度、熊本に戻ってきている。

山頭火は離婚したサキノのもとに身を寄せた。息子はすでに学校に通いはじめている。稼ぎのない山頭火は、留守番をするが、どうにも居心地がよくない(そりゃそうだ)。

相変わらず酒を飲んでばかりで、お金もない。「このままではいけない」と山頭火はまず知人に借金を頼み、金を送ってもらう。お礼の手紙にはこう書いている。

「おかげで当面の難関を打開することが出来ます。私も一切の過去を清算して新生活の第一歩を踏み出さなければならないのであります

家族の存在を嫌った山頭火が家族のために立ち直ろうとしている。友人もお金を貸した甲斐があったというものだが、それからぷっつりと手紙がこない。ようやく来た山頭火からの手紙にはこうあった。

「私はとうとうまた旅に出ました。まことに懸命の旅であります。私はやっぱり乞食坊主以外のものにはなりきれません」

どうしても働くことはできなかったようだ。いかんいかん、と思いながらも結局、酒を飲んでいただけの日々だった。

酒同様に愛していた「俳句」

再び旅に出た山頭火だったが、1年後にまた熊本に舞い戻る。だが、前回の反省を生かして、今度はもう働こうなんてバカなことは考えなかった。

山頭火には、酒と同様に愛し続けていたことがあった。それは俳句だ。山頭火はこのときに俳句雑誌『三八九』を発行。そしてまた1年したら旅に出るのだった。友人にはこんな手紙を書いている。

「私はまた草履をはかなければならなくなりました。旅から旅へ旅し続ける外ない私でありました」

旅を続けたダメ人間山頭火は、57歳のときに松山市に移住して「一草庵[いっそうあん]」を結び、翌年そこで生涯を閉じている。本人が以前から希望していた「ぽっくり往生」だった。

真山 知幸

著述家、偉人研究家

(※写真はイメージです/PIXTA)