元号が昭和から平成に変わった1989年は、日本プロレス界にとっても時代の変わり目だった。

 4月に新日本プロレスが共産圏初のプロレスラーとしてソビエト連邦の格闘家を導入して東京ドームに進出し、その後、アントニオ猪木は「スポーツを通じての国際交流」を掲げて7月の参院選に出馬して当選。これを機にプロレスの第一線を退いて、社長のポストも坂口征二に譲った。

 前年5月に旗揚げした前田日明率いる新生UWFは社会的ブームになり、5月4日に大阪球場に進出。

 10月には大仁田厚がUWFとは真逆の「プロレスは何でもあり!」を打ち出してFMWを旗揚げした。

 新日本のソ連格闘技軍団導入、大仁田のFMW旗揚げはいずれもUWFの影響を受けてのものだが、そんな中で「我関せず」とばかりに純プロレスを貫いたのがジャイアント馬場率いる全日本プロレスである。

 89年の馬場の年賀状に記されていたのは「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」の言葉。

 前年からの課題のインターナショナル、UN、PWFの3大タイトル統一を4月18日大田区体育館で、インター王者のジャンボ鶴田がUN&PWF2冠王者のスタン・ハンセンを撃破して成し遂げ、初代三冠ヘビー級王者に。

 6月5日日本武道館天龍源一郎が鶴田を下して第2代三冠王者になった試合は鶴龍頂上対決ベストバウト‥‥馬場・全日本の究極の名勝負として今も知られている。

 11月29日、UWFが新日本に次いで東京ドーム進出。6万人の大観衆を集めて話題になったが、同日、全日本は札幌中島体育センタ―で「’89世界最強タッグ決定リーグ戦」第12戦を開催。メインは馬場&ラッシャー木村VS天龍源一郎スタン・ハンセンの公式戦だった。

「来ていないマスコミと客に後悔させてやる」と、反骨心に燃える天龍は、入場してきた馬場に奇襲のトペを発射。その間に孤立した木村をハンセンと2人で集中攻撃。木村を戦闘不能に追い込んで馬場を引っ張り出した。

 これに対して馬場は16文キック、河津落とし、バックドロップ、ランニング・ネックブリーカーなど大技をフル回転させて反撃したが、天龍とハンセンの龍艦砲は容赦しなかった。

 馬場を合体ブレーンバスター、合体パワーボムで叩きつけ、最後は天龍が馬場の209センチ、135キロの巨体をパワーボム! 馬場が日本人選手にフォールを奪われるという歴史的な瞬間だった。

 後年、天龍はこの偉業をこう語っている。

馬場さんの体が真っ逆さまになって頭から落ちて、自分の体重がかかっていただろうけど。今でも〝馬場さんは必死になれば返せたんじゃないか?〟っていう疑問があるよ。〝UWFから少しでも新聞の紙面を奪ってやろう〟という経営者の馬場さんがいたかも」

 あの場面で3カウントを聞くことが、馬場の純プロレスに生きる者としての矜持だったのかもしれない。

小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。

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