選・文=温水ゆかり

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「戦争とジェンダー」にシンクロする姉弟の対話

  ロシア留学記『夕暮れに夜明けの歌を』(2021年10月)で随筆デビューした翻訳家&ロシア文学者(博士)の奈倉有里さん。アガサ・クリスティー賞受賞の『同志少女よ、敵を撃て』(2021年11月)で作家デビューし、翌22年、本屋大賞や高校生が選ぶ直木賞も受賞した逢坂冬馬さん。

 奈倉さんもやはり2022年、博士論文『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』でサントリー学芸賞、『夕暮れに夜明けの歌を』(胸が震えるほど繊細な情感に満ちた本です)では、紫式部文学賞を受賞している。

 同時期に“祭り”状態になったこの二人が、実は3歳違いの姉と弟だというのに一番驚いたのは、作家の高橋源一郎さんだったかもしれない。ラジオ番組「飛ぶ教室」で、驚き二大事件の一つとして顛末を語り、その動転&仰天の口ぶりに大笑いした(おかげでもう1コの驚き事件のことは聴き逃してしまった)。

 企画した編集者とまとめたライター(あえて“さん”は付けません。“さん”を付けると、かえって上から目線のようだと感じるので)に“お手柄賞”を差し上げたくなる姉弟対談集『文学キョーダイ!!』に、サラッとその話が出てくる。

逢坂「高橋源一郎先生は僕らが姉弟と知らずに、『アレクシエーヴィチ特集をやろう。ゲストは奈倉有里さんと逢坂冬馬さんだ』と決めてオファーを出していた。そこで初めて姉弟だと公言した」

奈倉「源一郎さんが『椅子から転げ落ちそうになった』っていう(笑)」

 このテーマにはこの人しかいないと、白羽の矢を立てた意中のゲストが血縁だったなんて想定外。髙橋源一郎さんによれば、収録の前に知人の編集者と話していたとき“今度、奈倉さんと逢坂さんをゲストに呼ぶんだ”みたいな話をしたら、編集者に“ごきょうだいで出演されるんですね”みたいなことを言われて、驚愕のあまり本当に椅子からずり落ちたらしい。

 アレクシエーヴィチとは2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチのこと。第二次世界大戦に従軍し、戦後その経験をひた隠しにした女性達から膨大な証言を収集した『戦争は女の顔をしていない』や、ナチスドイツに侵攻された白ロシアベラルーシ)で、当時15歳以下の子供だった人々に40年を経てインタビューした『ボタン穴から見た戦争 白ロシアの子供たちの証言』などで知られる。

奈倉「逢坂さんがアレクシエーヴィチに感銘を受けて『同志少女』を書いていたのと同時期に私はアレクシエーヴィチを翻訳していたんですけど(編注/『亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言 増補版』)、お互い知らなかったんですよね」

逢坂あそこから謎のシンクロが怒濤のように起きた」

「謎」という言葉が出てくるのは、二人が互いの動向に精通するきょうだいではなかったから。姉は日本の高校を卒業するとロシアへ。語学学校でロシア語を磨き、ロシア国立ゴーリキー文学大学に入学。初の日本人卒業者になった。

 一方弟は、高橋源一郎さんが教壇に立っていた明治学院大学国際学部に入学。アカデミズムの道は断念し、卒業後は文学各賞に応募する“作家未満”の日々を送る。思春期を別々の場所で過ごしたきょうだいが、相手のテリトリーにあまり踏み込まなくなるのは、なんとなく分かるような気がする。

 微笑ましくて、思い出すたびについ頬がゆるんでしまうのは、産まれたばかりの弟に3歳の姉がさっそく読み聞かせをしていたというエピソード。好きな子に自分が持つ最上のものを分け与えたいという原始の贈与欲求。生後数カ月でそんな文学教育を受けていた赤ちゃんのことを想像すると、また頬がゆるむ。

奈倉「ふだん会ったとき、なんの話をするっけ」

逢坂「時事的なことが多いですね」

奈倉「2022年のお正月は、戦争がはじまるのかなという話をしましたね」

逢坂「願望もこめて、『まあ、さすがにないんじゃないの』と話したよね」

奈倉「だけど2022年の2月に、侵攻は始まってしまった」

 弟はロシアの軍備や配置の面から、姉は図書館襲撃や言論弾圧の面から戦争を懸念していたが、嫌な予感は1カ月後に現実になってしまった。

 この対談集は、子供時代のこと、トルストイ文学を愛した新潟の祖父のこと、ご両親が涵養した教養主義(=非出世主義)、アガサ・クリスティー賞受賞から出版までの間に姉から受けた怒濤の指摘(編集者との打ち合わせよりコワかったとか)などの打ち明け話で楽しいが、上記の引用から始まるPART3の「私と誰かが生きている、この世界について」で旗幟鮮明になる思考の自由度は、何度読んでも飽きない。

「性的マイノリティがどう扱われているかによって、その国のあり方がすごく分かる」「全体主義体制成立の前段階として、性的マイノリティを弾圧するんです」と弟が語れば、姉は、リュドミラ・ウリツスカヤが絵本に、お父さんが二人いる子供も、お母さんが二人いる子供もいますよ、と同性カップルの話を書いたら、「ものすごいバッシングを受けた」と証言する。

 姉と弟の共通関心事を一つの言葉に集約するなら「戦争とジェンダー」。事前の打ち合わせ抜き、これもまったくのシンクロニシティであることがよく分かる。正視にたえないイスラエルによるパレスチナ攻撃など、世界は再び「戦争の世紀」に入ってしまったかのような今、広く読んでほしくなる。

自らのルールで生きようとした少年少女達の抵抗の物語

 逢坂冬馬の期待の新作『歌われなかった海賊へ』は、著者が「新しい戦争の語りというものに直面した」と語るアレクシエーヴィチの仕事に、やはり共振して生まれたものかもしれないと思わせる。

 ナチスドイツの時代に、“お国に褒められるいい子”ではなく、自らのルールで生きようとした少年少女達の抵抗の物語だ。

 反ナチ分子として父親が死刑になった天涯孤独のヴェルナー、名高い靴メーカーの子弟レオンハルト、自ら作詞作曲した歌(=文化)が全土に広まりつつある武装親衛隊将校の娘エルフリーデ、爆発物おたくドクトル

 彼らを慕った当時11歳、幼いゆえに矛盾した愚かなことばかり言っていたアランベルガーが、90代の独居老人となって、サンドイッチのパンのように具(1944年敗戦間近のドイツ)を包む。

 映画『スタンド・バイ・ミー』を思わせる鉄橋を渡る徒歩旅行(ワンダーフォーゲル)で、鉄路の先に収容所を見つけた彼ら「エーデルヴァイス海賊団」は、連合軍の落とし物=長延期信管の250㎏の爆弾で、収容所へと向かうトンネルと線路を爆破しようとする。

 爆破に成功するのが先か、連合軍によって解放されるのが先か。タイムリミットサスペンスのようでもあるが、そのスリルではなく、戦時下の人の心という不気味なサスペンスが突き刺さる。

 第二次世界大戦を記録したフィルムで、強烈すぎて今でも忘れられないシーンがある。連合軍によって解放された収容所から、骨に皮が巻き付いたような男性達が出てくる。全裸だ。後ろ姿の映像では、小枝よりも細い脚の間から、袋が揺れているのがはっきり見える。それほど肉がなかった。

 そんな男達の列を脇に立って見ていたふくよかな女性が、あまりに酷い人体の極限の姿に泣き出す。「私達は知らなかったのよ!」。その女性の前をすでに通り過ぎていた一人の男性は、首だけ後ろに回して吐き捨てる。「嘘だ」。

 著者は熱量高く書く。「戦争を遂行するとき、人間はその英知を結集する。その知性によって、一体どこまで陰湿で、どこまで残忍なことを思いつくのだろうか」。そして「人間は、自分が無知という名の安全圏に留まるために、どれほどの労力を費やす」ことか。

 しかし、これは本当に第二次世界大戦ドイツだけの話なのだろうか。日本軍について知る事柄のいくつもが、ここに重なる。『戦争は女の顔をしていない』をもじれば、「戦争はどこも同じ顔をしている」。

 対談集の中で逢坂さんは、戦争とは「大ホモソーシャル大会」だと看破している。「同じ顔」になるわけだ。つけ加えれば、ヘイトLGBTQ攻撃に精を出す人々も、パスポート記載の性別に関わらず、ホモソーシャル界の住人だろう。

『歌われなかった海賊へ』に登場するナチのシェーラー少尉は、嬉々としてのたまう。戦争は人々に帰属を与える。若者の不安は解消され、老人も存在意義を得る。戦争は「人間の本質であり、人間が生み出した大いなる営み」「全ての人間は疎外から解放される」と。

 歴史を思えば、ご高説の通りだと、うなだれるしかない。だからこそ、偽の熱狂と同化してはならない。処世術でしかない無知に逃げてはならない。真の自分を自らの手で疎外しないためにも、心に掲げた反戦の旗は降ろしてはならないと思う。

 最後に『文学キョーダイ!!』の中からこの言葉を。

「『パンとサーカス』という古代ローマの言葉がありますよね。政治的関心を失った民衆には食糧と娯楽さえ与えておけば、支配はたやすいという。いまの日本は国民にパンを与えないけど、サーカスは民営化されている」(逢坂冬馬)

 キョーレツ!! あまりにも“今”で、ノックアウトされたのでした。

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