1905年に終結した日露戦争の後、だんだんと力を増していった日本は、つい最近まで戦っていたロシアと良好な関係を築き、直接戦っていなかったアメリカとの関係が悪化していたそうです。いったいなぜなのでしょうか。『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏が、その当時の日本と諸外国の歴史を解説します。

満州進出をきっかけに、アメリカ・ロシアとの関係に変化が

満州の独占によってアメリカとの関係は悪化

日露戦争後、日本は関東都督府(のち行政部門の関東庁と軍事部門の関東軍とに分立)を設置して、満州の関東州(遼東半島南端の旅順・大連)を統治しました。

また、半官半民の南満州鉄道株式会社満鉄)を設立し、東清鉄道の長春・旅順間の経営や、沿線の炭鉱・鉄山の経営を行いました。

しかし、日本が満州権益を独占すると、アメリカは満州の「門戸開放」を要求して日本と対立しました。アメリカは満州進出を意図し、満州からロシアを排除するため戦う日本を支援していたからです。

加えて、移民問題も発生しました。日本人移民はアメリカ社会に溶け込まず、アメリカ人労働者の就労機会を奪ったため、カリフォルニア州中心に日本人移民排斥運動が高まりました。

ロシアとは満州をめぐって利害が一致

一方、日本とロシアは良好な関係に変化しました。

敗戦したロシア東アジアでの南下政策を諦めて北満州の権益維持を望み、日本はロシアから得た南満州の権益維持を望みました。

すると、日本とロシアは、満州と蒙古(モンゴル)の権益を分割しつつアメリカの満州進出を排除する、という点で利害が一致し、日露間で日露協約(第1~4次)が結ばれていきました(1907~16)。

日露戦争開戦、韓国への内政干渉がスタート

日露戦争の開戦直後、日本は日韓議定書を結んで韓国での日本軍の軍事行動の自由などを認めさせ第1次日韓協約(1904)を結んで日本政府が推薦する財務顧問と外交顧問を韓国政府に置かせ、内政干渉しました。

日本政府は「韓国併合」の方針を決定

日露戦争の終結後、韓国の保護国化と併合へ

当時、帝国主義による植民地・権益の獲得が公然と行われました。桂・タフト協定・第2次日英同盟・ポーツマス条約は、日本が韓国を保護国(主権の一部を失った国)とすることを米・英・露が承認したものでした。その直後に第2次日韓協約(1905)が結ばれ、日本は韓国の外交権を接収して統監府を設置し、伊藤博文が初代統監となりました。

そして、ハーグ密使事件(韓国が万国平和会議に密使を派遣して独立回復を訴えた)への報復として、日本は皇帝高宗を退位させ、第3次日韓協約(1907)で日本は韓国の内政権を接収しました。続いて韓国軍を解散させると、元兵士も参加して義兵運動による抵抗が激化し、日本は軍隊を用いてこれを鎮圧しました。

さらに、日本政府が韓国併合の方針を決定するなか、前統監伊藤博文が満州のハルビンで韓国の民族運動家安重根に暗殺される事件が発生しました。

最終的に、〔第2次桂内閣〕のもとで韓国併合条約(1910)が結ばれ、韓国の全統治権が日本に譲渡されました。日本は韓国を朝鮮と改め、植民地として朝鮮総督府を設置し、寺内正毅陸軍大臣が初代総督となりました。

朝鮮に対する植民地支配

朝鮮総督は現役軍人が就き、憲兵(軍内部の警察部隊)が一般人を取り締り(憲兵警察制度)、行政の末端まで軍が掌握しました(武断政治)。また、土地調査事業では多くの農民が土地を接収され(東洋拓殖会社や日本人地主が払下げを受けた)、生活の基盤を奪われて日本へ移住する人びとも多かったのです。  

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)