第一次世界大戦後、内政にさまざまな変化の波が訪れた欧米諸国。『大人の教養 面白いほどわかる世界史』(KADOKAWA)の著者で河合塾講師の平尾雅規氏が、明暗がくっきりと分かれた各国の悲喜こもごもを解説します。

第一次世界大戦後、各国で内政事情に変化が

債務国に転落したイギリスでは、大衆政治の時代が到来

第一次世界大戦の戦禍は、覇権国家だったイギリスにも大きな変化をもたらしました。アメリカへの借金を背負う債務国に転落し、植民地の維持にも四苦八苦。

政府は、国民に戦争協力を求めた見返りとして普通選挙・女性参政権を認め、民主政治・大衆政治の時代が到来しました。共産党が躍進するのでは?と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、政権に就いたのは穏健な労働党マクドナルドでした。

※これは他の国にも共通する現象

先進工業国は、植民地支配や貿易黒字によって国全体が豊かになって労働者の暮らし向きもよくなりました。これを反映して、革命を避ける「草食系」の労働党が勢力を拡大させたのです。 

イタリアでは、一党独裁政権が確立する

1920年代イタリアでは特筆すべき事態が。ムッソリーニが結成したファシストによる一党独裁が確立したんです。

まず背景にパリ講和会議がありました。イタリアは「未回収のイタリア」として南チロルやトリエステをようやく手に入れましたが、フィウメという領土も同様に獲得するつもりでした。

しかしその要求は認められなかったため、なんとイタリア代表は会議を途中退席。①国民の間には、領土に対する愛国的な不満が鬱積し、愛国的な領土拡大への渇望が生じます。一方で国内は、総力戦のあおりで経済混乱に見舞われました。

※得られる賠償金も少額だった

労働者は工場を、農民は地主の土地を占拠して、共産主義の機運が一気に高揚②警戒感を強めた資本家・地主・軍部などの上層は、革命を押さえつける強力な政府を期待するようになっていったのです。 

イタリアでは1919年と20年を「赤い2年間」と呼ぶ

①②の受け皿となったのが、ナショナリズムを武器として社会主義を攻撃し(議会制民主主義も否定)、強大な国家を目指す!」というムッソリーニの思想でした(この体制は、のちに「ファシズム」として定式化されます)。党勢を拡大させたムッソリーニは号令をかけ、黒シャツを着こんだ党員数万人をローマに集める示威行進を行いました(ローマ進軍)。

※大衆を動員するのも特徴

この勢いにビビった国王は、共産主義を警戒していたこともあってムッソリーニを首相に指名してしまうんです。この後、ファシスト党は大衆の支持を背景に法改正を重ね、1926年には一党独裁体制を確立させました。

これと前後して、イタリアフィウメの獲得やアルバニアの保護国化を進め、ラテラノ条約では普仏戦争時の教皇領占領以来、「冷戦状態」だったローマ教皇と和解。敬虔なカトリックであった国民はムッソリーニを支持・評価したのでした。

この時に、ローマ教皇のオフィスであるサン゠ピエトロ大聖堂とその周囲が、世界で最小の国家ヴァチカン市国として独立しました。その面積は約0.44km で、東京ディズニーランドよりもちょっとだけ狭いイメージです。 

「独裁国家化」を着々と進めるドイツとロシア

民主国家を樹立したドイツも、徐々にファシズムの道へ

イタリアに続いてドイツファシズム政権が成立することは皆さんご存知だと思いますが、両国には「上からの統一で近代国家が成立した」という共通点があります。

イタリアではサルデーニャ国王、ドイツではプロイセン国王が主導権を握って政治を行い英仏のような民主主義は根づきませんでしたね。このせいで「リーダーが一人で引っ張っていくから、国民は黙ってついて来い」というファシズム体制を、多くの国民が違和感なく受けて入れてしまった、という事情があるんです。

※国内では保守派が力を持ち続けた

とはいえ、ドイツ革命が起こったドイツは、15年ほどは民主主義が実現しました。それがヴァイマル共和国。1917年にロシア革命が起こると、ドイツ共産主義も「今こそ世界革命だ!」と立ち上がりました(スパルタクス団の蜂起)。

※カール=リープクネヒトやローザ=ルクセンブルク

しかし、ドイツの革命は帝政崩壊をもたらしたものの、共産主義革命の方は潰されてしまいました。ロシアで例えてみると…。三月革命は成功したけど、十一月革命は失敗したイメージですか。

イギリスなどと同様に、ドイツ労働者も革命を避けるドイツ社会民主党に流れていて、共産党メジャーになりきれなかった。その社会民主党主導で作られたヴァイマル憲法は、当然ながら労働者の権利を大々的に保障。これが「世界で最も民主的な憲法」と呼ばれた所以です。

その一方で、大統領緊急令を規定し、非常時に大統領に大権を与えました。これは19世紀の「上からの統一」の名残りと考えることができます。

ソ連では、レーニンの後継にスターリンが台頭

共産主義のソ連に目を向けると、レーニン死後のソ連ではトロツキースターリンの間で「後進国だったロシアが単独で社会主義を建設できるか?」という論争が勃発。

レーニンの後継者争いの意味合いもあった

トロツキーは「NO。世界革命を進めることでまずは共産主義国の仲間を増やすべき」と説きますが、スターリンは「YES」と真っ向から反論。勝利したスターリンはトロツキーを国外追放とし、政敵や反乱分子も、秘密警察を駆使して排除(「粛清」)し、独裁権を確立させました。 

※あえてトロツキーと異なる意見を挙げて追い落とそうとした側面も

1920年代に入り、「大量生産、大量消費社会」が誕生

独り勝ちのアメリカは、空前の好景気に突入

最後にアメリカです。大戦でアメリカ本土は被害をうけず、総力戦で苦しむヨーロッパの連合国に大量の物資を輸出し、お金も貸しつけていました。戦後は空前の好景気となり、ニューヨークウォール街が世界金融の中心にのし上がります。 

※アメリカの工業生産は、1929年で世界全体の約4割を占めた

この1920年代、現代に通じる大量生産・大量消費社会が生まれました。メーカーが同一規格の商品を大量に生産し、購買力を高めた大衆がこれを購入する、「画一化」が進んだ社会とも言えますね。

その象徴が、ベルトコンベアを用いた組み立てラインで自動車を大量生産したフォードでしょう。ラジオ映画など新たなメディアで企業広告が展開されたことも、大衆の購買意欲を刺激しました。

※1920年代半ばには約500のラジオ放送局があった

割賦販売(いわゆる分割払いのことで、商品代金を複数に分けて支払う)が普及して、高額商品にも手が届くように。

大衆には映画に加え、ジャズやプロスポーツなどの娯楽も根づいていきました。ウォルトディズニーミッキーマウスの映画を製作したのが1928年で、メジャーリーガー大谷翔平選手が事あるごとに比較されるベーブ゠ルースの全盛期も1920年代この時期のアメリカが100年後の日本に及ぼしている影響たるや恐るべし、ですね。

アメリカ国内では、移民排除の動きが目立ち始める

一方この時期、アメリカ合衆国を建国以来支えてきたイギリス系白人(WASP)の価値観が幅を利かせて社会は極度に不寛容になり、異質なモノは徹底的に攻撃されました。

※White,Anglo Saxon

禁酒法は WASP の「P(プロテスタント」の勤労を奨励し禁欲を重視する価値観から制定されたものですが、これにも大戦が影を落としています。

※ここではカルヴァン派を指す

大戦中、大切な食糧である穀物をビールなどにすることが「浪費」と批判され、しかもビール醸造業者には敵国ドイツ出身者が多かったんですよ。

イタリア移民2人が強盗殺人事件の容疑者として逮捕され、証拠不十分で死刑になったサッコ・ヴァンゼッティ事件には、WASP と相いれない移民に対する負の感情が見てとれます(ロシア革命の影響で反共の風潮が強くなっており、2人が無政府主義者であったことが偏見に拍車をかけた側面も)。

※なお2人とも、大戦において徴兵を拒否している

日本からの移民を禁じた1924年の移民法しかり。アジア人への風当たりも強くなりました。

平尾 雅規

河合塾

世界史科講師

(※写真はイメージです/PIXTA)