デビュー作『同志少女よ、敵を撃て』で第11回アガサ・クリスティー賞大賞、2022年本屋大賞を受賞、第166回直木賞候補となった逢坂冬馬氏の最新作『歌われなかった海賊へ』(早川書房)が10月に発売された。

 第二次大戦中のドイツを舞台に、ナチ政権への反抗を示した少年少女たち「エーデルヴァイス海賊団」を軸に、ナチ政権下における10代の若者たちの知られざる姿を描いた本作について逢坂冬馬氏に話を聞いた。

(取材・文・撮影=すずきたけし

逢坂冬馬さん

ナチ政権下の少年少女を題材にしたきっかけ

――『歌われなかった海賊へ』はナチ政権下のヒトラー・ユーゲントに焦点をあてつつ、反抗したり逸脱したりした子どもたちを主人公とした物語ですが、本作を書くきっかけや、着想はどこから得たのでしょうか。

逢坂冬馬さん(以下、逢坂):2017年頃にヒトラー・ユーゲントの戦争動員についてサイニィ(CiNii 国立情報学研究所 学術情報ナビゲーター)という論文検索システムで関係する論文を探していたんですが、偶然にも竹中暉雄先生の比較的短いエーデルヴァイス海賊団についての論文を見つけたんです。その時にナチ政権下の青少年たちがヒトラー・ユーゲント体制に組み込まれていたという自分の中にあった前提が少し崩れたところがありまして、もっとこの人たち(エーデルヴァイス海賊団)について知りたいなと思ったのが最初のきっかけです。

――それから今回の刊行までにはウクライナへのロシアの侵攻などありましたが、本作を書くにあたって当初考えていたものから変わったことはありましたか。

逢坂:それは大いにありました。『同志少女よ~』で戦争というものを描いたと言えるんだろうかというふうに考えたときに、作品の素材的にそういうのが出てくる場面じゃなかった、ということもあるんですけども。やっぱり市民社会の視点というのがだいぶ欠けていたということに気づきました。そして他のジャンルの小説に挑戦する前に期せずして現実の戦争が投影された、ということも含めて『同志少女よ~』がいろいろな形で注目を浴びてしまった。そこである種の自己回答をしておかないといけないなという気持ちがありました。そんなときにふと思い出したのがエーデルヴァイス海賊団のことなんです。

エーデルヴァイス海賊団とは】
第二次大戦時、ナチ体制下唯一の青少年組織であるヒトラー・ユーゲントに反抗して、全国で自然発生的に生まれた少年少女たちのグループ。反戦ビラを作成したり、ヒトラー・ユーゲントに喧嘩を仕掛けたり、違法な外国のラジオを聴くなどの活動を展開した。

――本作を書くにあたって大変だったことや気をつけたことはありますか?

逢坂:大変だったのはとにかく資料が少ないということ。前作の舞台である独ソ戦は日本語の本がたくさんあったんですけど、エーデルヴァイス海賊団というのは今のところ専門書が日本国内で出ているのは2冊しかない。うち、国内の研究者が書いたのは1冊だけという感じでしたので、とにかく入手できる素材の量が少なかったということも大変でした。

逢坂冬馬さん

ナチドイツのイメージとヒトラー・ユーゲント

――『歌われなかった海賊へ』では、ナチ政権下を象徴するヒトラー・ユーゲントが登場します。これはどのような組織だったのでしょうか?

逢坂ドイツでは第一次大戦の前後あたりから青少年団ブームが巻き起こっていたわけですが、それは職業や社会階層や宗派などいろいろなものによって結成されていました。また若者同士の結びつきによって階級の垣根を超えていこうという発想の団体もあった。ヒトラー・ユーゲントも、もともとは野党時代のナチスの単なる少年団として発足させた目新しいところがない組織で、各政党が作っている青少年団のひとつだったんです。しかしナチスが国会を掌握して政権を樹立すると、唯一の合法的な青少年団の組織になり変わっていきました。年少組織も含めると10歳から15歳あたりから加入させられるヒトラー・ユーゲントは、思想教育としても学校の自主性というものを完全に破壊し尽くして、男女は完全に分かれた上で若者たちに思想教育を施しています。ナチスは未来の若者を掌握するという発想を強く持っていて、最初から軍事組織的なものを目指していたわけではないようですが、戦争の後半のヒトラー・ユーゲントは軍事組織の姿を濃くしていきました。

――本作の舞台は戦争の後期である1944年ですが、この時期のヒトラー・ユーゲントは完全に国家に承認された唯一の青少年団で、若者はヒトラー・ユーゲントに加入することが義務付けられていた時代です。本作で描かれているエーデルヴァイス海賊団だけではなく、例えばモイテン(比較的政治色が強く、ヒトラー・ユーゲントに敵対的な態度をとった若者たち)やスウィング青年(大都市の富裕層の子弟からなるジャズやパーティーなど自由を謳歌しようとする若者たち)といった、ヒトラー・ユーゲントに反対する少年少女たちというのはいくつかあったようですが、実際に若者らによる抵抗活動などはされていたのでしょうか。

逢坂:社会的評価は非常に難しいところなんですけれども、エーデルヴァイス海賊団であれモイテンであれ、少なくとも自然発生的かつ自発的にナチドイツ体制に反発していて、ヒトラー・ユーゲント体制に代表されるナチ党による少年少女の一元管理に反発していたことは確かにあるんです。ただそれを“抵抗”というふうに表現していいかと言うと、これはわりと主として学問領域の話なんですけど、いくつかの段階に分かれて評価されていて、組織的かつ徹底的な抵抗というのはかなり厳格に定義されています。そこにはおそらくエーデルヴァイス海賊団というのは入っていなくて、“反抗”の部分なのではないか。ただそれらが単なる不良集団だったのかというとやっぱりそうではなくて、自分たちの集まりを作ってヒトラー・ユーゲントをぶん殴るとか、敵対精神を露にしてくる組織がそこにいるということ自体が、ある種の反体制活動ではあるんです。だから徹底的な抵抗の組織ではなかったにせよ、自発的かつ自然的に反抗していたんだろう、というのが適切なところではないかと思います。

――『同志少女よ~』で逢坂さんにお話を伺ったときに、独ソ戦のイメージが日本では歪んだ形で捉えられていたので本来の姿を少しでも小説の中で描きたいとおっしゃっていましたが、『歌われなかった海賊へ』でもナチドイツ政権下の市井のイメージに対して違った視点で描くことを意識されたのでしょうか。

逢坂独ソ戦における日本のイメージとはまた違う理由で、日本におけるナチドイツ政権下での青少年体制、青少年の在り方(のイメージ)というのは、やはり実態よりもかなり歪んだところにあると思います。というのは、ナチドイツ時代の青少年というふうに言葉を思い浮かべた時点ですぐさまヒトラー・ユーゲントが出てきてしまう。

 これは内外向けプロパガンダの恐ろしいところでもあるんですけれども、市民社会の側にナチドイツに迎合した側面はないかということを問い直す行為と、ナチドイツが当時やっていた「我々は市民に支持されている」というプロパガンダは全然違うものでありながら、非常に結びつきやすいんです。つまり、市民社会の側がナチドイツに迎合していたという側面を見ようとすると、突如としてナチドイツが行っていた「ドイツ市民に支持された我々」というプロパガンダを引き上げ出してしまう。実際はそんな単純なものではないですが、若者が全員同じ制服を着て、颯爽と行進して、突撃隊の真似っこみたいなことをしたヒトラー・ユーゲントの姿というのは絵になりますから、あれがイコールドイツの青少年の標準的な姿だと言われれば当時として確かにそうなんですけど。どうしても全てが統制された完全に操られたその結果としてヒトラー・ユーゲント体制があるというような容易な理解に行きつきやすいのだとは思います。しかし、そうじゃない側面に目を向けたときに、特にこれといって背後関係が存在するわけでもない青少年たちが自発的にナチ体制に反発し続けていたということは、ひょっとしたらイメージの一端が崩れるかもしれないという期待はありました。

逢坂冬馬さん

戦争のなかの文化とは

――ネタバレになるので、はっきりとは言えないんですけど、主人公たちも含めて“あるもの”を見た人たちとそれを見なかった、または見なかったことにしている人たちが登場します。この違いとはなんでしょうか。

逢坂:具体的な違いっていうのは、そこに行ってみたかどうかじゃなくて、見ようとしたかどうかの違いだと思います。作中でもほぼ言及されていますが、そもそも主人公らが見に行こうとした時点でいろいろとおかしなことに気が付いていたし、ハイキングで行ける場所にその邪悪な象徴のような“あるもの”があった。これは他の人たちも見に行こうと思ったら見に行けたはずなんですよ。社会的に何か巨悪が発生すると、それをあえて見に行かないことにして自分が知らなかったという立場を守るのは、それはやはり普遍的に社会がやってしまうことではないだろうかと。見た人と見なかった人たちの違いは、その光景を見たかどうかという結果の部分ではなくて、見ようと思った、見ようとしたのかというところに一番根源的な違いがあると思います。

――本作ではもうひとつ、歌がとても重要な鍵になっていて、その歌が文化という言葉に結びついていることが強く印象に残りました。これには戦争の中での文化というものへの逢坂さんの強いメッセージを感じたんですが。

逢坂:なんであんなに繰り返し歌が出てくるのかというと、やっぱり実際に資料を読んでいると出てくるんですよね。翻訳された彼らが歌っていた歌詞を資料を通じて何度も見たのですが、当然メロディがよくわからないし残っていない。体制の側じゃないから残ってないんですね。その距離感。自分もこの歌がどんな歌だったのか知りたいと思うんだけど知ることができないという、その距離感を小説で表現したかった。彼らが残そうとしていた文化とは何だったのか? 政治的な目標でもなく、思想信条でもなく、自由に生きたいという思いを表出しようとすると、結局はそれが文化に行きつくというのが自分の考えです。今あらゆる全体主義国家では必ず文化を遮断して、例えば中国が自国批判に結びつきそうなものを全部自国に入れないのもそうですし、実は日本でも、クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』という映画は普通に考えたら日本に入ってくるような予算規模の映画なのに、「原爆開発」という素材が揉めそうだから入れないというのも結局のところ、ある種の文化遮断なんですよ。ただ、それらを何らかの手段で見ていくこと自体に意義がある。カウンターカルチャーというのは、どこの国にもどこの時代にも成立し得るし、伝える人がいることで成立する。エーデルヴァイス海賊団という存在自体が反抗する少年団ではあったけど、多分にカウンターカルチャー的な存在だったと思います。

 だからこそ、ハイキングに出かけたりとか歌ったりとか、一見して牧歌的な行動を彼らはおこなったというわけです。それらを見直すということは、ひょっとしたら文化を継承することであるのかもしれない。

全体主義の弱者排除

――ロシア文学者の奈倉有里さんと、弟である逢坂さんとの対談『文学キョーダイ!!』(文藝春秋)の中で、逢坂さんは全体主義が進むにつれて性的弱者が排除される傾向があるとおっしゃっていて、本作でもその部分について描かれていました。逢坂さん自身は社会と性的弱者との関係について強い関心を持たれているのでしょうか。

逢坂ファシズムが成立する前段階に性的マイノリティが抑圧されるというのは、特にここ近年繰り返されてきていることではあるんですけど、実はワイマール共和国も末期あたりからナチドイツが成立する間にしてもそうだったといいます。実はワイマール共和国の時代から同性愛行為は非合法化されてはいましたけれども、一応相互理解のための文化運動みたいなものもあったんです。ところがナチ政権が樹立すると徹底的に弾圧されている。この構図というのは、過去の歴史の話ではなくて、現在でもポーランドとかハンガリーとかロシアとかそれぞれの利害関係で対立している国でも、制度上の民主主義からファシズムに逆行する前段階で必ずといっていいほど性的マイノリティが弾圧されていて、これはものすごく危険な兆候なんです。なぜかというと、人種的あるいは民族的な立場というのは場所を変えるとある種のマジョリティだったりすることもあり得るんですけど、性的マイノリティはあらゆる国のあらゆる地域において完全なマイノリティであるということなんです。

 だから社会がある種の合意に基づいてマイノリティを排除してもいいんだ、という前提をものすごく作りやすいんです。性的マイノリティの排除というのは、特に素朴な感情に訴えて、あれは変だ、不自然だ、このままじゃ私たちは何かに侵犯されるぞ、というような論法が繰り返し社会に提示されるようになってきたら黄色信号です。この論法は色んなところで使われますから、それについては気をつけていきたいと思います。

逢坂冬馬さん

“戦争”を描くということ

――戦争を描くことについてお聞きしたいのですが、例えばヒロイックなことを書いてしまうとそれが戦争の英雄として賛美されるものになったりと、戦争を描くことに難しさがあるとは思います。戦争やその周辺を小説で描くことについて、逢坂さんご自身が気をつけていることなどはありますか。

逢坂:「完全な立場」というものを作らないことですね。『同志少女よ~』での独ソ戦におけるソ連の立ち回りが小説の中でだいぶ二転三転するのもそうなんですけれども、本当に注意しないと容易に「完全な立場」を見つけてしまう。エーデルヴァイス海賊団は、本当は歴史的進展の中では、もう少し期間を長くとった方が彼らは何だったのかということを論じる上では適切だったと思います。でもそれは小説の役割ではないから今回は捨てざるを得なかった。史実に則って考えれば青少年期特有の逸脱行動であったとみなされていたし、そういう面もありました。実際には青少年期の中頃にヒトラー・ユーゲントから逸脱した状態で生きていたとしても徴兵制度自体は揺るがないわけですから、結局軍隊に入って戦争に行った人たちもたくさんいただろうし、そこで残虐行為に手を染める側に立ってしまった人もいたと思う。本当はそこまで描きたかったんだけど、今回はそういう時間がなかった。登場人物のひとりであるドクトルは、あまり自分の立場からエーデルヴァイス海賊団に接近せざるを得なかったんじゃなくて、性格的に向いていなかった。彼がなぜ最後まで心が揺れ動いたのかというと、エーデルヴァイス海賊団はヒロイズムとは無縁の存在であったし、自分たちもそう思っていたし、別に何か崇高な理想に向けて戦っているわけじゃないから組織として脆いところもあったからです。また作中でBBCドイツ国内唯一の民主化勢力としてエーデルヴァイス海賊団を称賛する放送があったというのは、実際史実で本当にあったんですが、本人たちが聞いたらどうリアクションしたのかといろいろ考えたらああいう反応が出てきた。だから、色んな思惑を投影すること自体が彼らに対するある種の侮辱にもなりうるし、あるいは過剰な称賛にもなりうる。だからこそ誰かの思想を代弁するのではなくて自由に生きたいから、好きなように戦うという彼らの在り方を描きたかった。それは過剰な称賛でもなく、侮辱でもなく、ヒトラー・ユーゲント的なものに反発して自由に生きたいという根源的な欲求をエーデルヴァイス海賊団を通じて描いたつもりです。

――最後に『歌われなかった海賊へ』を手に取った方へメッセージをお願いします。

逢坂:『同志少女よ、敵を撃て』を読んでいらっしゃる方について言えば、前作に対する自分なりの宿題ですという気持ちで書いています。本書から初めて手に取った方に関しては、この小説も多分、前回と同じくいろいろな側面があると思います。この小説に何を見出すかによって自分の関心の所在が結構見えてくると思うので、その結果がダメでつまんなかったというものだったら、それはそれで受け止める余地があります。誰に注目し、誰に感情移入し、何が一番印象に残ったかということにもし注目していただけると、それはそれで書いた方としてはとても書いた甲斐があったと思います。

『歌われなかった海賊へ』(早川書房
ナチドイツの抑圧に反抗した少年少女の物語。
1944年ヒトラーによるナチ体制下のドイツ。密告により父を処刑され、居場所をなくしていた少年ヴェルナーは、エーデルヴァイス海賊団を名乗るエルフリーデとレオンハルトに出会う。彼らは、愛国心を煽り自由を奪う体制に反抗し、ヒトラー・ユーゲントにたびたび戦いを挑んでいた少年少女だった。ヴェルナーらはやがて、市内に敷設されたレールに不審を抱き、線路を辿る。その果てで「究極の悪」を目撃した彼らのとった行動とは。
差別や分断が渦巻く世界での生き方を問う、歴史青春小説。

逢坂冬馬
1985年埼玉県生まれ。明治学院大学国際学部国際学科卒。2021年、『同志少女よ、敵を撃て』で第11回アガサ・クリスティー賞を受賞しデビュー。同作で2022年本屋大賞、第9回高校生直木賞を受賞した。2023年に、ロシア文学者であり実姉の奈倉有里との対談本『文学キョーダイ!!』が刊行された。

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