2019年に公開された映画『宮本から君へ』に公的な助成金を交付しないとした決定をめぐる訴訟で、最高裁第二小法廷(尾島明裁判長)は11月17日、歴史的な判決を下した。不交付は「適法」とした2審・東京高裁の判決を破棄して、原告側の逆転勝訴を言い渡したのだ。

この事件のあらましは次のようなものだ。

文化庁が所管する独立行政法人「日本芸術文化振興会」(芸文振)が2019年3月、あらかじめ文化芸術の知見のある専門家の組織に意見を聞いたうえで、映画制作会社(原告)に対して、映画『宮本から君へ』の制作に対して、文化芸術振典費補助金(助成金)を交付するという「内定」を出した。

ところが、その後、映画に出演していた俳優のピエール瀧さんが薬物事件で逮捕されて有罪となったことから、芸術的観点とは別に「薬物乱用の防止」の公益を理由として、助成金を不交付とする前例のない決定をおこなったため、原告がこの処分は違法だとして、取り消しを求める裁判を起こした。

この訴訟の原告(上告人)の代理人の1人であり、行政訴訟・憲法訴訟にくわしい平裕介弁護士に最高裁判決のポイントを聞いた。

●形式的には「行政訴訟」、実質的には「憲法訴訟」だった

――何が裁判の争点だったのでしょうか?

この訴訟の形式的な争点は、本件助成金を不交付とした決定が、裁量権の逸脱・濫用(行政事件訴訟法30条)として、違法にあたるか否かというものです。

とはいえ、その背後には、文化芸術に関する「表現の自由」(憲法21条1項)や「文化的な生活を営む権利」(憲法25条1項)といった憲法上の価値や趣旨があり、これらを守れるのかというのが、実質的な争点だったといえます。

つまり、形式的には、処分取消訴訟(行政事件訴訟法3条2項)というタイプの訴訟で、行政法上の争点が問題にある「行政訴訟」なのですが、広い意味では、あるいは実質的にみれば「憲法訴訟」だったという面がありました。

――1審と2審は、どのような判決を言い渡したのでしょうか?

1審・東京地裁(2021年6月21日判決)は、助成金の交付・不交付についての芸文振理事長の行政裁量を認めつつも、助成金交付の内定を決定した場合には、芸術的観点からの専門的な判断を尊重する芸文振の要綱の定めや仕組みを踏まえてもなお助成金を交付しないことを相当とする「合理的理由」がある場合があるかどうかという判断枠組み(審査基準)をとりました。

この「合理的理由」が認められれば適法ですが、認められなければ違法となるということです。そのうえで、東京地裁は、芸文振の主張する「公益」について「合理的な理由」は認められないので、裁量権の逸脱・濫用の違法があると判断しました。

このように、1審では原告が全面勝訴判決を得ましたが、東京高裁(2022年3月3日判決)は、判断枠組みを大幅に変更し、まったく逆の結論を下しました。

東京高裁は、一見すると、「判断過程審査」という従来の判例がとってきた裁量判断のプロセスを審査するという判断枠組みを採用しました。しかし、よく読んでみると、この判断枠組みはいわば特殊な「判断過程審査」であり、芸術的観点と公益的観点の実質的な衡量を避けられるような内容になっていて、実際には従来の判例がとってきた判断過程審査とは異なる手法でした。

その結果、東京高裁は、芸術的観点を重視せず、これとは別の薬物乱用防止の観点だけを過度に重視した不交付の決定でも適法だと判断してしまいました。

このような判断は、裁量権の逸脱濫用(行政事件訴訟法30条)の解釈(判断枠組み)・適用を誤ったものであり、本来あってはならない不当なものでした。なお、このような不合理な判決の数カ月後、原告の代表者(当時)は亡くなってしまいましたので、このことは本当に残念でなりません。

●もし負けていたら「憲法上の価値を守れなくなる」事態に発展していた

――もし高裁判決が確定してしまっていたら、どうなっていましたか?

万が一、東京高裁の判決が確定してしまい、裁判例となってしまうようなことがあれば、他の文化芸術などにも影響を及ぼし、文化芸術に関する「表現の自由」(憲法21条1項)や「文化的な生活を営む権利」(憲法25条1項)など、憲法上の価値を守れなくなるという事態が相当程度生じやすくなってしまい、法の支配や立憲主義の観点から大きな問題がありました。

大げさな話などではなく、高裁判決が確定してしまっては、この国の将来が危うい状況となっていたと思います。

とはいえ、最高裁の裁判(判決・決定)による「破棄率」は、近年では、おおむね1%(1%未満の年もあります)であり、特に行政訴訟の原告が高裁で敗訴した場合に最高裁で逆転することができるのは、かなり難しいというのが法律家の共通認識ですから、非常に厳しい状況にありました。

しかし、原告も原告弁護団も、先に述べたような危機的状況だけは絶対に回避しなければならないと考え、何とかこの文字通りの不当判決をひっくり返す必要があると考えていました。

――最高裁は、どのような判断をしたのでしょうか?

最高裁第二小法廷は、独立行政法人芸術文化振興会法が定める「芸術の創造又は普及を図るための活動に対する援助等により芸術その他の文化の向上の寄与」という助成金の趣旨や、芸文振の目的(同法3条)の点を重視しつつ、他方で、芸術的な観点からは助成の対象とすることが相当な活動についても助成金を交付すると「一般的な公益」が害されると認められるときには、そのことを交付に係る判断において「消極的な事情」として考慮することができ、そのような考慮をする行政裁量(判断の余地)もあると述べました。

ただし、「表現行為の内容への萎縮的な影響が及ぶ可能性」や、「芸術家等の自主性や創造性」を損なうおそれ、「憲法21条1項による表現の自由の保障の趣旨」に照らすと、「表現行為の内容に照らして一般的な公益が害されるということを消極的な考慮事情として重視し得るのは、(1)当該公益が重要なものであり、かつ、(2)当該公益が害される具体的な危険がある場合に限られるものと解するのが相当である」という審査基準を立てました。

そのうえで、今回のケースでは、「薬物に対する許容的な態度が一般に広まるおそれ」を防止するなどといった一般的な公益については、「薬物を使用する者等が増加するという根拠」はないなどとして「具体的な危険」が認められないとしました。

また、「本件助成金の在り方に対する国民の理解」については、「公金が国民の理解の下に使用されることをもって薬物乱用の防止と別個の公益とみる余地があるとしても、このような抽象的な公益が薬物乱用の防止と同様に重要なものであるということはできない」としました。

つまり、このような2つの公益について、前者は(2)の点で切り(ただし(1)の点も明確には判断していません)、後者は(1)の点で切ったということです。

このようにして、最高裁は、本件処分は重視すべきではない事情を重視した結果、社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものであるとして、裁量権の逸脱・濫用があると判断しました。

最高裁は、原告側の主張をほぼ全面的に受け入れるとともに、上述の厳格な審査基準については原告の期待以上の内容を示してくれました。東京高裁とは真逆で、過去の判例の系譜にも沿った素晴らしい判決であり、司法権の役割を果たした内容だといえます。その重要性から、判決当日に、最高裁の公式サイトでアップされましたので、多くの人に読んでいただきたいですね。

最高裁)助成金不交付決定処分取消請求事件
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/502/092502_hanrei.pdf

最高裁が「厳格な司法審査の基準」を立てた意味

――今回の最高裁判決にはどんな意義があるのでしょうか?

文化芸術助成について、初めての最高裁判決でした。そして、先ほど述べたとおり憲法21条1項の定める「表現の自由」や、文化芸術基本法2条1項・2項に規定されている芸術家の「自主性」や「創造性」というキーワードにもあえて明記し、さらには行政組織(本件でいうと芸文振)の目的や本体的な役割が何かという行政法に課する点についても重視し、先に述べた厳格な司法審査の基準を立てました。

このような審査基準は、補助金・助成金に関する裁量処分について言うと、一切、前例のないものでしたし、他の分野の行政裁量の認められる行政活動についてみても、ほとんど例のないものといえると思いますので、画期的で歴史的な判決だったといえます。芸術家の「自主性」や「創造性」を明記しつつ、厳格な審査基準を立てたことなどから、日本版の「アームズ・レングス・ルール」を示したものとも言えるのではないかとも思います。

近年の絶望的な「破棄率」にもかかわらず、最高裁がこのケースを拾い上げ、東京地裁すら明言しなかった「表現の自由」にもあえて明確に言及したこと意味は、実務的にも、学術的(特に憲法・行政法・財政法)にも、社会的にも、とても大きな意義があります。

今回の判決により映画表現の自由の価値は守られましたが、この結果は、これまでご支援いただきましたみなさま、そして訴訟に関心をもっていただきましたみなさまに支えられたものでした。この場を借りてあらためて厚く御礼を述べたいと思います。社会課題の解決を目指す「公共訴訟」を支援するウェブプラットフォーム「CALL4」でも『宮本から君へ』の判決以外の書面や証拠を公表していますので、ぜひご覧いただきたいです。

(CALL4)『宮本から君へ』助成金不交付決定取消訴訟
https://www.call4.jp/info.php?type=items&id=I0000095

――補助金・助成金に関する判決としては初めての最高裁判決ということですが、最高裁が参考にしたと考えられる過去の判例はあるのでしょうか?

いくつかありますが、3つの判例に絞って紹介します。

1つ目は、泉佐野市民会館事件(最高裁判所第三小法廷平成7年3月7日判決)です。この事件では「危険の発生が具体的に予見されることが必要」であると述べており、『宮本から君へ』事件の最高裁判決の「具体的な危険」と共通するところがあります。

また、泉佐野市民会館事件の園部逸夫裁判官は、公物管理権の行使について定める市民会館条例の本来の目的を指摘し、住民の安全保持等の警察的目的という別の観点の公益を理由に規制することには問題があることや、そのような規制は本来的に公物警察権行使のための組織・権限及び手続に関する法令・条例に定める規制によるべきである旨の補足意見を述べています。

これは行政法の基本原則と言われる権限分配原則によるセクショナリズムの考え方を給付行政(補助金・助成金の交付)の文脈でも参考にしたものではないかと考えられます。

セクショナリズムは、「縦割り行政」では良くないといったネガティブな意味でつかわれることもありますが、他方で、行政の権限濫用を抑え、私人(私企業)に予測可能性を与えるなどの機能があるという良い面もあり、最高裁もこのような観点も踏まえて行政組織の目的の点を強調したものと私は分析しています。

ちなみに、高裁判決が出たあと(最高裁判決が出る前)に公表した拙稿でも、以上のようなセクショナリズムの考え方を『宮本から君へ』事件でも考慮すべきという指摘をしており、上告関係の書面でもその趣旨のことを書いていました。最高裁はこれに応えてくれたのだと思います。

2つ目は、呉市公立学校施設使用不許可事件(最高裁判所第三小法廷平成18年2月7日判決)です。この判決は『宮本から君へ』事件の最高裁判決(「重視すべきでない事情を重視」)と同様に、「重視すべきでない考慮要素を重視」したことなどを裁量権逸脱・濫用の理由としています。ちなみに、このような観点でおこなう判断枠組みは、行政裁量をコントロールする基準としてはかなり厳しいものだと言えます。

3つ目は、マクリーン事件(最高裁判所大法廷昭和53年10月4日判決)です。行政裁量の司法審査において考慮することのできる事項に関して、最高裁が「消極的な事情」という言い回しをすることはレアだと思います(なお、判例ではありませんが、積極・消極という言い方をする行政法学者はいます)。『宮本から君へ』事件の最高裁判決の「消極的な事情」という判示は、マクリーン判決の「消極的な事情」という判示を参考にしたものとみられます。

なお、主な「給付行政」を3つに大別すると、「供給行政」、「社会保障行政」、そして「資金補助行政」(補助金・助成金の交付など)に分けられます(ドイツの行政法学者フォルストホフによる分類)。

1つ目の泉佐野市民会館事件は、公の施設を目的の範囲内で利用するという集会の自由に対する「規制行政」の判例とも位置付けられうるものですが、その反面、「供給行政」の事案であるという「給付行政」の事案の面もあると捉える余地もあります。

すると、給付行政のケースのうち、供給行政の先例である泉佐野市民会館事件における厳格な判断枠組みを、資金補助行政の『宮本から君へ』事件のケースにも参考にしたものといえるでしょう。このように『宮本から君へ』事件の最高裁判決は、「給付行政」についての重要な判決でもあると考えられます。

――最後に、今回の最高裁判決の与える今後の影響について教えてください。

実にさまざまな影響やインパクトがあるとは思いますが、最も直接的な影響についてだけコメントします。

今回のケースに限りませんが、一般的に、行政機関は、違法なことさえしなければ何をしてもよい、というわけではありません。行政機関は、裁量権を行使する行政活動をおこなうような場合に、裁量権の範囲内で適法な行為をすべきことは法律による行政の原理(法治主義)から当然のことです。

そして、美濃部達吉『日本行政法 上巻』(有斐閣、1936年)の説明を参考にすると、行政機関は「適法」なことをしていればよいというだけではなく、最も公益に適するという意味で「妥当」な行政活動をおこなうこと、言い換えれば、各セクションに分かれた行政機関がそれぞれの目的を達成すべく、それぞれが管轄しており一種の専門的な知見のある分野の公益実現のためにベストを尽くすということも必要になります。それが行政機関の役割なのです。

このような観点からすると、ただ単に、助成金の「内定」を得るには一般的・抽象的な公益を考慮できるとか、内定を得ていた場合でも一般的な公益を考慮して内定を取り消す(その結果、不交付決定をする)ことができるといった内容にも読めてしまう現在の芸文興の要綱(行政法学でいう「行政規則」・「裁量基準」に当たるもの)は、今後速やかに改正される必要があります。

今の要綱ままでは、仮に「違法」とまではいえなくても、多くの申請者(これから申請をする者)に対して、『宮本から君へ』事件の最高裁判例の趣旨に反して、一般的・抽象的な公益を重視することもできるという「誤ったメッセージ」を与えるという点で、少なくとも「不当」である(「妥当」ではない)内容だといえるからです。

判例の趣旨に反する行政規則を制定することは、不当な行政活動(行政作用)ですから、そのような状況を速やかに改善しないという不作為もまた不当な行政活動なのです。

そして、先に述べたとおり芸文振の要綱が改正されるべきなのはもちろんのことですが、文化芸術振興等を目的とする行政組織(文化庁等)が、現時点の芸文振の不当な要綱と同じような(あるいは似た)内容の補助金や助成金の要綱などを作成・公表している場合には、やはり同じようにそれを見直し、速やかに改善する必要があるでしょう。

今回のような正当な判決を受けて、行政機関が過去の誤りをしっかりと組織的に反省し、その後の行政活動を改善していくことは、三権分立立憲主義をとる法治国家のもとでは当然のことです。とはいえ、大変残念なことですが、こうした本来「当たり前」のことが、裁判で何年も戦わなければ実現できないというのが、この国家の「今」なのかもしれません。

しかし、だからこそ、憲法が保障する自由や権利の価値や趣旨を、私たち市民の「不断の努力」(憲法12条)によって、国家権力の濫用から守り、基本的人権の価値を保持しなければならないのだと考えます。

【取材協力弁護士】
平 裕介(たいら・ゆうすけ)弁護士
2008年弁護士登録(東京弁護士会)。行政訴訟、行政事件の法律相談等を主な業務とし、憲法問題に関する訴訟にも注力している。上智大学法科大学院・日本大学法科大学院・國學院大學法学部等で行政法等の授業(非常勤)を担当。審査会委員や顧問等、自治体の業務も担当する。
事務所名:永世綜合法律事務所
事務所URL:https://eisei-law.com/

『宮本から君へ』事件、もしも映画会社の敗訴だったら「この国の将来が危うかった」 原告代理人が語る最高裁「逆転判決」の意義