いまや9億円で取引される「デイトナクーペ」にもっと乗っておけばと後悔! 最後はキャロル・シェルビー御本人がお買い上げ【クルマ昔噺】

じつに惜しいことをした思い出が残る……

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第14回目はトミタオートから購入したシェルビー「デイトナクーペ」を振り返ってもらいました。

宿敵フェラーリ250GTOを打ち破ったデイトナコブラ

今回ご紹介するのは「デイトナコブラ」というクルマである。正式名称はShelby Daytona Coupe(シェルビー デイトナ クーペ)と呼ぶようであるが、ロードスターの「ACコブラ」をベースにGTクラスのスポーツカーに仕立て上げたもの。1965年のFIA GTマニュファクチャラーズのチャンピオンを獲得したマシンでもある。

まあ、スポーツカーと言ってもほぼレーシングカーという方が正しい。当時同じカテゴリーでレースをしていたのがフェラーリ「250GTO」。これを打ち破ってのチャンピオンなのだから価値がある。もともとロードスターのACコブラ(ハードトップ付き)でル・マンにエントリーしたシェルビーは、長い直線のトップスピードフェラーリより劣ると判断し、当時シェルビーに在籍していたピート・ブロックに空力性能に優れたクーペボディのデザインを指示。結果出来上がったのがこのクルマだ。

このアイディアは見事に結実し1964年ル・マンでは宿敵フェラーリ250GTOを打ち破り、総合4位、GTクラスのウィナーとなった。そんな貴重なマシンがチャンピオンを取った翌年の1966年に日本へとやって来たのである。第3回日本グランプリに突如として姿を現したデイトナクーペは、酒井 正(敬称略、以下同)のドライブで雨の予選こそ最下位に沈んだものの、スタートでその大排気量のパワーを活かし、ストレートで一気にトップに躍り出た。その後2位を走るもまだまだハイパワーマシンを御しきれなかったのか、レースではエンジンを壊してリタイアしたが、そのスピードの片鱗はたしかに見せつけた。

当時のグランプリの公式プログラムがある。しかしエントリーリストに酒井 正の名も、またデイトナコブラの名もない。レース出場車として紹介されていたのは三保敬太郎のエントリーしたACコブラロードスターの写真が掲載されているが、これは出走していない。酒井はグランプリのエントリー締め切り1カ月前というタイミングで出場を表明したそうで、プログラムの作成には間に合わなかったということであろう。

シェルビー「デイトナクーペ」の思い出

CX2287というシャシーナンバーを持つクルマをオリジナルとして合計6台(たった!)が作られたこのクルマ、日本にやって来たのはシャシーナンバーCSX2300のマシンである。初レースは1964年2月のデイトナ12時間。その後珍しい白に塗り替えられて、ヨーロッパのレースを走る。

1965年はワークスカーとしてガーズマン・ブルーのシェルビーアメリカンカラーに塗られ、2月のデイトナで総合6位入賞。3月のセブリングでも13位完走を果たした。ル・マンは欠席し、1965年ニュルブルクリンクに出場している(この時は12位)。

ワークスによるレース活動はここで終了。そしてキャロルシェルビー・ガレージセールによって、当時レース活動もしていたオートワールドという模型屋のオーナーオスカー・コヴェルスキーに売却されるのだが、わずか数週間でドン・ニコルスに売却され、日本にやってくることになったのである。

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トミタオートから購入したデイトナコブラ