(歴史ライター:西股 総生)

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関ヶ原合戦が及ぼした影響

 1600年(慶長5)に起きた関ヶ原の合戦により、徳川家康は力を伸ばし、豊臣家は凋落の途をたどることとなった。では、関ヶ原合戦は当時の権力構造に、具体的にはどのような影響を及ぼしたのだろうか。

 まず、関ヶ原合戦の結果として、豊臣秀頼を支えるはずだった五大老五奉行体制が崩壊してしまった。五大老のうち、西軍主力だった宇喜多秀家はA級戦犯として八丈島に流され、毛利輝元上杉景勝も叛乱に荷担したため、大幅減封となって力を失った。残る前田家のみは、関ヶ原で中立を保ったため100万石の領地を維持している。

 また五奉行のうち、挙兵の首謀者だった石田三成は敗戦後に捕らえられて斬首。西軍に荷担した長束正家は自害、増田長盛も所領を没収された。前田玄以は許されたもののほどなく病没、浅野長政は合戦以前にすでに失脚していた。このように、五大老五奉行の構成メンバーが事実上壊滅状態では、家康に権力が集中するのは当然の成りゆきであった。

 前田家は健在だったが、代替わりした若い利長では家康の対抗馬にはならない。なぜなら、政治の本質は利害調整だからだ。何かしら利害の対立が生じたとき、調停を持ち込むなら、若いボンボンより、経験・実績・財力を併せもった老練な政治家の所である。関ヶ原以後の豊臣政権内で、そのような人物は家康をおいてない。

 では、この時期の豊臣政権内で、調整の必要な利害とは具体的には何か? 大名たちにとって、もっとも重要な権益は領地だ。その領地が、関ヶ原合戦後の論功行賞によって、大きく変動しているのである。敗者である西軍諸将から没収された領地が、勝者である東軍諸将に分配されたからだ。

 この場合、敗者(西軍諸将)とは謀叛人であり、勝者(東軍諸将)は討伐軍である。そして、討伐軍の総指揮官は家康だがら、没収と分配は家康が主導することとなる。結果として家康に政治的実権が否応なく集中してゆくのだが、このプロセスは、山崎合戦後に羽柴秀吉が抬頭した過程と、そっくりなのである。

 山崎合戦の後に行われた清洲会議の本題が、勝ち組による「戦利品の山分け」であったことは、以前に指摘したとおりだ。

◉「どうする家康」でも登場、織田家の後継問題だけではない「清洲会議」の本質

 清洲会議の時も、織田家の後継者である三法師が幼弱な状況で、勝ち組による山分けが行われたことが、秀吉による簒奪を招くこととなった。こう見てくると、関ヶ原合戦後の家康の立場が、かつての秀吉とよく似ていたことがわかる。

 さらにいうならば、戦利品=敵から巻き上げた所領を大将が分配することで権力が生まれる、という構図は、鎌倉幕府が成立した時と基本原理が同じである。石橋山の敗戦から立ち直った源頼朝は、大庭景親・佐竹氏らを討って、没収した所領を配下の武士たちに分配し、彼らの権益の保障者となることで「鎌倉殿」の地位を得た。

 武士とはもともと職能戦士であるから、武士が結集してできる武家政権は、本質的に軍事政権である。そんな彼らが打って出る戦争とは、勝った者が全てを手にし、負けた者が全てを失う決着方式だ。ゆえに勝ち組の親分(大将)が権力者となる、というのが武家政権の基本原理なのであり、武家政権とは内乱の中から生まれるものなのだ。

 こんなふうに考えてくると、鎌倉殿と家康の大河ドラマを続けて見られるというのは、とても幸運な経験だったと気付く。大局的なものの見方を養えることこそが、歴史を知る本当の意義だからだ。ただ、昨今は目先の情報にばかり囚われて、大局的なものの見方を養えない歴史ファンが増えているのが、残念ではあるのだが…… 。

 

※家康の大河ドラマを見た今だからこそ学び直したい武家政権の成立史⇒西股総生著 『鎌倉草創-東国武士たちの革命戦争』(ワンパブリッシング)

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  『鎌倉殿の13人』中世軍事考証担当が考える、大河ドラマの物語性とその役割

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写真/西股 総生(以下同)