(町田 明広:歴史学者)

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◉八月十八日政変160年―黒幕は中川宮と高崎正風か①

薩摩藩・会津藩の連携が始まる

 文久3年(1863)、中央政局は即時攘夷を声高に唱える長州藩や、三条実美ら過激廷臣によって牛耳られていた。長州藩では、攘夷実行の期日である5月10日から外国船の砲撃を開始したものの、追随する藩は現れず孤立無援の状態が続いた。即時攘夷派にとって、こうした事態を打開する必要に迫られていた。

 即時攘夷派の切り札こそ、孝明天皇の「大和親征(行幸)」の実現であり、中川宮の「鎮撫大将軍」(西国鎮撫使)の任命であった。それを阻止するために、中川宮と高崎正風は動き出したのだ。

 8月13日中川宮の指示によって、高崎正風が会津藩へ政変決行を申し入れた。その状況を、会津藩側の史料『鞅掌録』(会津藩公用方の広沢安任が執筆)によって確認すると、「(8月)十三日薩州人高崎佐太郎(正風)突然として我等の旅寓に来たり」とある。

 つまり、高崎は何の前触れもなく、突如としての公用方の広沢安任・秋月悌二郎らを訪ねており、ここから八月十八日政変に向けた策動がスタートしたことがうかがえる。高崎は中川宮の指示を受け、即座に動いたのだ。

高崎正風の動向と松平容保の即諾

 高崎正風と広沢安任・秋月悌二郎らの連携がスタートしたことに伴い、八月十八日政変に向けた画策が綿密に行われた。「高崎正風日記」の8月13日条には、「早朝秋江会、中江出、桜江昇、又中江参云々 五更 両尊より御書当来」との記載がある。ちなみに、「秋」は会津藩士秋月悌二郎、「中」は中川宮、「桜」は近衛忠煕を指している。

 日記の記載によると、高崎は早朝に秋月に会い、その後に中川宮に、さらに近衛忠煕に謁見した。その後再び、中川宮に謁見し、五更(現在の午前3時から5時ごろ)に中川宮と近衛忠煕から書簡が届いたとある。実に、高崎の動きは機敏であり、精力的である。

 高崎から政変決行の打診を受けた秋月は、直ちに松平容保に高崎の申入れを説明し、政変参画への諾否を迫った。容保は、薩摩藩からの正式な申入れであり、中川宮自らが政変を指揮すると判断した。そして、即時攘夷派が牛耳る京都政情を打破し、叡慮を安んじる決意から、容保は何ら躊躇なくその申入れに即諾したのだ。

松平容保の政変に向けた決意

 松平容保は兵力を備えるために、8月11日に国元兵との交代のために京を発していた部隊に対して、大和親征を口実にして引き返させた。あわせて、各兵営に対して外出を禁じる命令を発したのだ。

 なお、容保は同時に、江戸在住の老中に対して、「この段階でも、諦めることは決してしない覚悟である。なお、尽力する方法もあるので、必ず後に一書を呈するので、それを待って欲しい。現状は、筆紙に尽くしがたい事情がある」と書き送った。まさに、政変への参画を示唆したものとして軽視できない。

 会津藩・松平容保は京都守護職としての責務から、特に文久国是(破約攘夷)による政令二途から発生した西国問題(長州藩と幕府・小倉藩の確執等)への善処の意図からも、当然参画を決意せざるを得なかった。しかし、その武力を薩摩藩によって利用され、しかも薩摩藩との連携の事実が潜行して表に出なかったために、政変の恨みを一身に負う結果に陥ってしまう。会津藩と長州藩の悪しき因縁は、こうして始まることになったのだ。

 8月14・15日の薩摩・会津両藩士および中川宮の具体的な活動を裏づけるものとしては、「高崎日記」(8月15日条)に「夜富田亭にて会合 秋月、広沢、大野(英馬)、松坂(三内)」との記載のみである。高崎を軸に、16日の中川宮の参内、それに続けて政変実行の綿密な打合せが繰り返しなされ、その最終確認が8月15日の会合であったと考える。

 高崎による13日の会津藩に対する周旋開始によって、15日までの間に中川宮および薩摩・会津両藩の提携は確立し、具体的な計画の立案にまで至った。まさに、政変の決行は目前に迫ったのだ。

八月十六日の政変は未遂だった!

 実は、八月十八日政変ではなく、「八月十六日政変」の計画が進行していた。勅命によって、主として会津藩の武力で禁門を固め、勅許を得ない堂上の参内を禁じ、それ以降は孝明天皇の意に叶った勅旨を発する計画が立案された。これは、実際の八月十八日政変と骨格はほぼ同様である。

 中川宮午前4時に参内し、まだお目覚め前の孝明天皇に拝謁を願い出たが、実際には午前6時にようやく拝謁が叶った。これは、天皇が以前から痔であり、この時も便所において難儀をされ、ことのほか時間がかかったことによる。

 中川宮孝明天皇に対し、政変を進言したものの、天皇は「何分にも即時攘夷派の勢いが盛んであるため、容易に軽率な決行はよろしくない。なお、じっくり検討して欲しい」と、自重を要請したため、政変計画は頓挫したのだ。こうして、幻の「八月十六日政変」は実現しなかったが、次回はいよいよ“八月十八日政変”そのものについて、その実相を詳しく追っていこう。

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