第一次世界大戦の最中、イギリスは戦況を有利に進めるために各国に戦争協力を求めます。一方では国の独立を約束し、他方ではその国を分割して領有する協定を結ぶというイギリスの外交は、現在の中東問題の火種を生みました。『大人の教養 面白いほどわかる世界史』(KADOKAWA)の著者で河合塾講師の平尾雅規氏が解説します。
アラブ人に独立を約束する一方で、仏・露とは統治の密約を…
第一次世界大戦に苦しむイギリスは、場当たり的に約束を乱発して各所に戦争協力を求めました。第一の被害者がアラブ人です。
まずイギリスは、メッカの太守(シャリーフ)フセインと協定を結んでイギリスに協力する見返りとしてアラブ人に独立を約束※。
その一方で、フランス・ロシアとのサイクス・ピコ協定でオスマン帝国のアラブ人地域を山分けしようと密約。
さらには、バルフォア宣言で資金協力と引きかえにパレスチナ※におけるユダヤ人国家の建設を支持。
今回、図表には国や地域に目印となる番号をつけておきました。フセインが想定したアラブ人国家の地域は地図内の②③④に及ぶ、□で囲まれた広大な地域であるのに対し、サイクス・ピコ協定で分割が約束された地域※は、地図内の③④に相当する斜線エリアです。
※ パレスチナは国際管理とされた
そして④パレスチナに至っては3つの約束が重複し、矛盾だらけの状態に!
フセインは1916年にヒジャーズ王国※を建国。イギリスとの申し合わせ通りに挙兵し、王国軍は一時シリアにまで侵攻して、アラブ統一国家を夢見ます。
しかし戦後、サイクス・ピコ協定に基づき③④に相当する部分は英仏の統治下に置かれました※。とはいえ、民族自決が掲げられたこの時期に植民地を新たに増やせば大騒ぎ。
※ ロシアは革命が起こったため、分割には参加せず
そこで編み出された方便が委任統治でした。敗戦国から奪った地域を「近代国家としての自立が難しい君たちを、戦勝国が支えてあげよう」という建前で支配したのです。
実は…今まで黙ってましたけど、アラビアには部族争いの火種があったんです。フセインの前に立ちはだかったのが、アラビアの豪族サウード家。当主イブン=サウードは、ネジド王国※を建て勢力拡大。決戦は、イブン=サウードの勝利に終わりました。
※ アラビア半島中部
彼はアラビア半島を統合しサウジアラビア王国※が成立します(フセインはアラブ統一どころか玉座も失う羽目に…)。サウジアラビアとは「サウード家のアラビア」という意味です。
サウード家はワッハーブ派を奉じており、現在もイスラーム法を施行する政教一致体制を採用しています。サウジアラビアの国旗には「アッラーの他に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」という文言が書かれていますよ。
続いて③④に相当する斜線部分です。英仏が自分の都合でイラク・ヨルダン・シリアなど③を切り刻んで分配しますが、怒りが収まらぬアラブ人の激烈な民族運動が起こり、英仏とも独立を容認する方針への転換を迫られました。④のパレスチナはバルフォア宣言が絡むのでもっと大変。
オスマン帝国の滅亡…新国家では「クルド人問題」が勃発
イギリスに従属していた⑤エジプトでも民族運動が高まり、イギリスは1922年に独立を認めました。とはいえスエズ運河地帯の駐兵権、エジプト防衛権、スーダン統治権はイギリスが保留するという形式的な独立でした。
ではオスマン帝国の本丸①小アジアです。大戦に敗れて死に体のオスマン帝国で軍人ムスタファ=ケマルが立ち上がり、アンカラに新政府を建てて侵攻してきたギリシア軍と戦いました。
一方、1920年に結ばれたセーヴル条約でオスマン帝国に残されたのは、ヨーロッパ側はイスタンブルだけ、小アジア側もわずかな領土のみ※…。まさに亡国です。
※ アラブ人地域は英仏に分配されている
ムスタファ=ケマルは、トルコをゼロから再生するしかないと決意し、スルタンを退位させ、ここにオスマン帝国は滅亡しました※。
※ 600年以上の歴史に幕を閉じた
ムスタファ=ケマルの指導力を見たイギリスはアンカラ政府を認めざるをえなくなります。ここでケマルは、多民族国家で難儀するよりも「トルコ人の国民国家」としてスリム化しよう※という判断を下しオスマン帝国時代のアラブ人地域をスパっと切り捨てました。
※ これを「トルコ主義」という
でも実際は単一民族ではなく、多くのクルド人が居住していました。セーヴル条約では民族自決を反映してクルド人の自治が持ち上がったのですが、ムスタファ=ケマルはこれをもみ消してトルコ領内に押しとどめます。これが現在まで続く「国家を持たない最大の民族」クルド人問題です。
同年、ムスタファ=ケマルを大統領としてトルコ共和国が成立。「アタテュルク」という尊称を贈られた彼は、西欧化を進めました。
まずは政教分離で、イスラーム法に代わって憲法を制定しました。
続いてイスラーム世界において地位が低かった女性の地位を高め、女性参政権が実現します。
さらには文字と暦からもイスラーム色を排除する徹底ぶりでした。
政教一致のサウジアラビアとは好対照ですね。ただ、政教分離の観点でモスクから博物館に転用されていた、壮大な「アヤソフィア」が2020年にモスクに戻されました。
背後には、モスク復活を求める保守層からの支持を得たい大統領の狙いがある、という憶測がもっぱらです。
イランのカージャール朝は、第一次世界大戦でイギリスとロシアに占領されてしまいます※。ロシアは革命が起こって撤退するものの、イギリスは戦後まで居座りました。
※ 英露に対抗するため密かにドイツと通じていた
ここで、トルコのムスタファ=ケマルに相当する存在が登場。軍人レザー=ハーンで、自らパフレヴィー朝を創始して国王になりました。西欧化改革を進めたところはトルコと共通していますね。
また彼は、国号をペルシアからイラン※と改めました。イラン人の国民意識を考えるうえで、
※ Iran=アーリヤ人(高貴な人たち)の国
インド=ヨーロッパ語系のイラン人(ペルシア人)とセム語系のアラブ人が別の民族であることは、ぜひとも知っておいていただきたいです。
インドにも自治を約束したが、反故にするイギリス
大戦中のイギリスは、インド人にも戦後の自治を約束し協力を求めました。100万人以上のインド人がイギリス軍に入隊し、祖国のために戦ったんですが、戦後の1919年インド統治法で認められた自治は名目的なものでした。
怒れるインド人を、イギリスはローラット法で押さえつけます(「令状なしの逮捕、裁判抜きの投獄」を定めたこの法、もはや法治国家の体すらなしていませんよね…)。
こうなれば、インド人とイギリスの衝突は不可避なわけで、無防備の民衆が発砲をうけて多数の死傷者が出ました※。
この事件と同時期、「イギリスに断固報復すべきだ!」と憤る民衆に対して「暴力を用いても、互いが憎み合って悪循環になるだけ。我々は野蛮なイギリス人と同レベルになってはいけない」と非暴力・不服従(サティヤーグラハ)による抵抗を説いたのがガンディーでした。
店舗や工場を一斉休業して断食し※1、自ら糸を紡いでイギリス製品を不買し、選挙をボイコット。イギリス人に暴力で取り締まられても決して反撃しない※2。
※1 ハルタール
※2 無抵抗のインド人への暴力は、国際的非難を呼んだ
はじめは消極的な印象だったこの戦術も、次第にインドの大衆を巻き込み、また一時はイスラーム教徒の全インド=ムスリム連盟も共闘する一大ムーヴメントに。
民族運動の最大組織国民会議派も、1929年のラホール大会で非暴力・不服従の方針を採用しました。「完全独立(プールナスワラージ)」を採択したこの大会の中心にいたのが、のちの初代首相ネルーですね。
疲弊したイギリスはインドへの譲歩を余儀なくされていき、ついに1935年インド統治法において州レベルの自治※は認められることになりましたが「独立」はいまだならず、という状況です。
※ ≒内政
平尾 雅規
世界史科講師
コメント