文=吉田さらさ 

JBpressですべての写真や図表を見る

歩いて発見した知られざる地方仏

 東京ステーションギャラリーで開催中の展覧会「みちのく いとしい仏たち」では、長い仏像鑑賞歴の中でも見たことがない珍しい造形の仏さまに数々お会いできた。キャプションを読まなければどんな種類の仏さまなのかわからないものも多く、まだまだ自分の知らない奥深い世界があったことに驚かされた。

 しかしもっと驚いたのは、展示物に添えられた説明文や各章のタイトルだった。「かわいい」、「いとしい」、「ニコニコ仏」、「ブイブイいわせる」など、他の展覧会ではついぞ目にすることのない言葉が多用されている。学術的な専門用語よりわかりやすくて一般鑑賞者にはありがたいのだが、僧侶や大学の先生たちからすれば、信仰や研究の対象である仏像を「かわいい」などと評するのはあまりよろしくないのでは……しかし、今回の展覧会の監修者である弘前大学の須藤弘敏先生の熱い解説を聞いて納得できた。

 これらの像を「かわいい、かわいい」と愛でていらっしゃるのは、実は先生ご自身だったのだ。展示されている仏さまの多くは、先生が北東北(青森県岩手県秋田県)の山間や海辺の集落を丹念に歩いて発見した知られざる地方仏である。ある時は地元の人々に怪しまれ、またある時は積み重なるカメムシをかき分けてようやく見つけ出した仏さまの数々を、先生は「この子たち」と呼んでおられる。「かわいい」や「いとしい」という言葉は、単に仏さまの姿形についてだけでなく、その像を彫り、大切に拝んできた人々の心もかわいらしく、いとおしいという意味合いも含んでいるようだ。

「かわいい」や「いとしい」がいっぱい

 それでは第一章「ホトケとカミ」から見ていこう。日本の仏教が神仏習合という形で発展したことはよく知られているが、仏教の伝播がもっとも遅かった東北では、よりホトケとカミの区別が曖昧となり、どちらともつかない不思議な像が多かった。

 岩手県の天台寺は奥州藤原氏以前からの観音霊場で、平安時代の傑作仏像が多いことでも知られている。今回は二体が展示され、そのうち一体の如来立像は、のみの彫り跡を残す「鉈彫」という手法で作られている。京都や奈良の仏像とは明らかに違う神秘的な表情も印象的だ。東北の人々にとっては、ホトケとカミの区別などよりも、その像に何らかの霊性が宿っていると感じられるかどうかの方が大切だったのだろう。

 第二章「山と村のカミ」では、東北各地に残る山神信仰の像が展示されている。神と言っても古事記などの日本神話とは違う民間信仰のカミであり、不思議なことに、仏像的な要素も持っていたりする。岩手県の兄川山神社の《山神像》は、巨大な頭部が目立つユニークなプロポーション。山神像として拝まれているそうだが、頭部には螺髪を表現したらしきでこぼこ、眉間には白毫の痕跡のようなものがあり、仏像に近いように思われる。

 第三章「笑みをたたえる」では、ニコニコ笑う仏さまたちにお会いできる。京都や奈良の著名な仏像は無表情に拝む者を見下ろし、邪悪な心があれば叱られそうな威厳があるが、東北の民間仏はそんな厳しさとは無縁で、救いを求める者を無条件に受け入れてくれそうだ。

 岩手県一関市の松川の北、田河津村に祀られていた《観音菩薩立像》には、なんとおっぱいまである。基本的に菩薩には性別はないとされるが、他の地方にも、女性的な体つきの観音像は存在する。しかしながら、ここまではっきりとした乳房がある像は見たことがない。目元が下がり、口角がきゅっと上がった笑顔も、まさに近所の優しいおばちゃんのようである。

 第四章「いのりのかたち」には、岩手県宝積寺の《六観音立像》が展示されている。これは民間仏としては異例の県文化財指定を受けている。六観音とは聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝観音の総称で、観音様はこの六つの姿に変身して六道を輪廻する人を救うと言われる。

 頭上の形や手の本数、ポーズなどがそれぞれ決まっており、通常はどれがどの観音様なのかが一目でわかるのだが、この六観音はそうした基本形を完全に逸脱した独自路線なので、素人にはどれがどれやらまったくわからない。実は、各像の背中に「○○観音」という墨書があるため特定できているのだそうだ。

 第五章は、いよいよ「ブイブイいわせる」である。ブイブイいわせる仏像とは、不動明王毘沙門天など、怒りの表情が特徴的な像のことだ。東北地方にも本格的に恐ろしい像は多々あるのだが、今回展示されるのは、作風が素朴過ぎてどれだけ頑張ってもかえってかわいく見えてしまう像ばかりだ。青森県洞圓寺の《不動明王二童子立像》は、まったく迫力のない不動明王が、どことなく不服そうな顔をした二童子を引き連れている。

 第六章は「やさしくしかって」。閻魔様とその仲間たちのユニットである十王像が多数展示される。東北地方では、この十王を祀る閻魔堂が村の寄り合い所のような場所でもあったとのことだ。閻魔様は亡くなった人が極楽行きか地獄行きかを決める裁判長。人間、いつかは死んで閻魔様に裁かれる運命なので、生きているうちに疑似体験をしておこうということか。

 岩手県の黒石寺の《十王像》のうち一体は、舌を突き出した奇妙なお顔である。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるというが、それと何か関係があるのだろうか。

 第七章は「大工 右衛門四良」。青森県十和田市の洞内に右衛門四良という大工が住んでいた。そして法連寺という寺とその近隣に、その人が彫った像が100体もあるという。仏師でも僧侶でもないのにそれほどたくさんの仏像を彫るとは驚異的な大工さんだ。

 今回展示されている法連寺の《童子跪坐像》が実に面白い。像の底の部分が丸くなっていて前後に揺れる、つまり起き上がりこぼしのような仕掛けになっているのだ。地獄で十王や鬼たちにお辞儀を繰り返し、「ごめんなさい」と謝り続ける子供。想像すると、かわいいだけでなく、なんだか切なくなってくる。

 第六章は「かわいくて かなしくて」という印象的なタイトルだ。おそらくこれがこの展覧会のメインテーマなのだろう。展示のラスト近くに青森県慈眼寺の《子安観音坐像》は、須藤先生が民間仏の魅力に目覚めるきっかけになったという愛らしい観音様だ。

 赤ちゃんを抱く若い母親の姿。こうした像を造るのは追悼のためであろうから、もしかするとこの母子はお産がうまくいかず、同時に亡くなってしまったのかも知れない。立派な寺に祀られるきらびやかな仏像は、権力者がお金を出し、専門の技術を持った仏師が彫る。それに対して民間仏は、村の大工さんなどが稚拙な手法で彫るのだが、そこに込められた祈りの心は、立派な仏像と同等、あるいはそれ以上だと思う。東北の暮らしは厳しく、人の命ははかない。そんな寒村の人々の心のよりどころであるからこそ、民間仏はかわいく、かなしく、せつなく、いとおしいのだ。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  静嘉堂文庫美術館が丸の内へ移転。《曜変天目》だけじゃない国宝7件展示

[関連記事]

再現不可能?世界に3つの奇跡の茶碗、国宝「曜変天目」の魅力

モネ、ゴーガンら世界中の芸術家が憧れた異郷「ブルターニュ」その魅力と傑作

《鬼形像》江戸時代 正福寺/岩手県葛巻町