※この記事は映画の重要な部分に触れています。鑑賞後にお読みください。  

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開幕早々、画面に映し出されたビンが投げ捨てられたゴミに汚れた川。その“野蛮さ”から、それが高度成長期の風景だとすぐに想像がつく。カットが変わると、遠く工場の煙突が煙を吐き出す夕景に「昭和三十一年・東京」とテロップが入る。こうして本作は、高度成長が始まったばかりの昭和31年1956年)を舞台に、本格的に物語がスタートする。  

東京の風景は、血のように禍々しい夕日の赤で染められているが、これは終盤に登場するサクラの花の禍々しい赤さに直結していおり、主人公である水木が血液銀行に勤めているという設定と併せて、本作が“血”をめぐる物語であることを示している。  

このあと、夕日に赤く染まった水槽の底を列車が走り、水槽のデメキンが月にオーバーラップして、夕景が夜行列車の場面に変わるという大胆なトランジションを経て、夜行列車の中での水木と謎の男の邂逅が描かれる。真っ赤に染まった夕景に密室感のある夜行の客車と重苦しい空気が続いた後、トンネルを越えて哭倉村(なぐらむら)に入ると、ビジュアルは一変する。青い空、緑の水田、強い夏の日差しがクッキリとした影を落とす道。このガラッとしたトーンの転調は印象的だ。ここに限らず本作は、各シーンの色彩のイメージが明確で、それが語り口の一部となっている特徴だ。  

しかし、この夏らしい開放感もいっときのこと。カメラは、畑の中や小さなほこらの中から、歩みを進める水木をとらえ、よそ者である水木が「誰かに見られている」という違和感を言外に伝える。その演出により、このいかにものどかな夏の田舎の風景が、よそよそしい、わざとらしいものとして迫ってくる。こうして観客は居心地の悪さを抱えながら、水木とともに、龍賀一族が支配する哭倉村へと足を踏み入れることになる。  

では、哭倉村で何が語られたのか。  
ゲゲゲの鬼太郎』は、原作マンガの連載とTVシリーズ第1シリーズ(1968)、第2シリーズ(1971)などが、高度成長期に重なっている。そのため、いくつかのエピソードは前近代的・土俗的な“妖怪”と、開発や文明化といった近代化を目指す人間の振る舞いがコンフリクトする様子も描かれている。だから、昭和31年という時代背景を考えると、本作も前近代的な妖怪たちと近代的な合理性や科学といったものがコンフリクトする様子が描かれるのではないか、と想像された。実際、映画は哭倉村が、非常に閉鎖的な村と描写され、そこに奇怪な殺人事件が連続して起きる。  

しかし、事件の全貌が明らかにされてみると、事件の――というより哭倉村の背景にあった事象は、土着のなにかではなく、むしろ日本の近代化と結びついたものだった。  

この村を支配する龍賀家の当主・龍賀時貞は、日本の政財界に大きな影響力を持つ存在。彼が死に、葬儀の前夜、次期当主に命じられた長男・時麿が何者かに殺されたことをきっかけに連続殺人事件が発生する。  

時貞翁が現在のような地位を手に入れられた背景には、グループ会社のひとつ龍賀製薬が特別な顧客にのみ販売する血液製剤「M」の存在があった。Mは数日間不眠不休で活動することができるという効果を持つ。水木は戦時中、南方でその噂を聞いたことがあった。日清戦争日露戦争の快進撃の影には、何日も飲まず食わず眠らずで戦い続けられる部隊おり、その秘密はMと呼ばれるクスリにある、と。  

Mの存在は薬効と経済の両面で、現実の出来事を思い起こさせる。薬効という点では、アジア太平洋戦争中に、夜戦の兵士や戦闘機パイロット、特攻隊員らに支給していた。兵士に覚せい剤ヒロポン)が与えられていたというエピソードを思い出させる。当時はまだハードドラッグであるという認識がなく、日本に限らず、軍隊で覚せい剤が使われていた例は多いという。  

経済という点では、満洲国の財政を支えたのはアヘン・マネーであり、それが日本軍の工作資金として使われたことを思い出させる。満洲国アヘンを政府専売にしつつ、密売されたアヘンによって資金を得ていたというのだ。公に流通しないものは、表に出ないお金の源泉として最適であり、それはそのまま“権力”の強さにつながる。  

こうして考えると、時貞は、一見前近代的な“しきたり”の上に立って人々を抑圧しているように見えるが、キャラクターの本質はそこにはないことがわかる。むしろ、日本の近代化の過程に、クスリという側面から積極的にコミットしたことで(台詞から推察するにMを開発したのも時貞本人であろう)、その地位を得たのである。  

そして昭和31年。敗戦から10年間の奇跡の復興の影にもMの存在があった。そして今後、高度成長期というもうひとつの“戦争”に本格的に突入する時代の中で、そのニーズはさらに増しそうとである。水木は上司から、哭倉村で原液が作られているというMの秘密を探ることも命じられている。  

このような戦中と戦後を分かつことなく続く日本の近代化の裏面に、時貞は――孫の時弥に魂を移してまで――君臨し続けようとしたのである。またMの原料として、狩られその血を吸い上げられていたのが、妖怪と似たような存在と説明された「幽霊族」なのだ。つまり本作は前近代と近代の相克ではなく、国家の近代化と自らのエゴを重ね合わせた存在が、そのためになにを踏みつけにしたのか、というのが本作の根底にある構図なのだ。そして、その幽霊族の血によって、秘密の地下空洞のサクラは赤く妖しく美しく輝くのだ。本作の“赤”が常に不穏な雰囲気をまとうのは、ここに理由がある。

開発という文明化によって、土着の存在(妖怪たち)の存在が揺らぐという従来の『鬼太郎』シリーズとは、異なる構図がここでは採用されている。
このような構図の中で、主人公・水木はどのような役割を担っているのか。  

まず、名前の通りこのキャラクターは、原作で鬼太郎誕生に立ち会うことになる水木という青年を念頭に造形されている。そしてその名前(と発音の時のイントネーション)から、原作者・水木しげる本人のイメージも付け加えられている。子供の頃、老婆から妖怪の話を聞いたことがある体験や、南方での戦争体験などがそれにあたる。それぞれの体験は『のんのんばあとオレ』、『総員玉砕せよ!』として作品化されており、多くの人に知られているエピソードでもある。  

ただ水木というキャラクターの人格は、水木しげるを踏襲しているわけではない。水木は、自分が兵隊として上官、ひいては国家に踏みつけにされてきた経験から、二度と踏みつけにされないぞと考えている上昇志向の強いキャラクターだ。そのためにMの秘密を探る密命もこなすし、龍賀一族に近づこうともする。  

そんな水木が、幽霊族の最後の生き残りで、行方不明の妻を探す男・ゲゲ郎と出会ったことで変わっていく。その変化は「見えないものが見えるようになった」という形で言い表される。彼の目にうつる、妖怪や死んだ人の魂。それは彼が見ようとしてきた「踏みつけにする側」の視線では絶対に見えてこないものだ。こうして水木は幽霊族によって、“人間らしい”感情を蘇らせていく。水木は、血で赤く咲くサクラに、国家や会社に血を吸われてきた自分の人生の本質を見たのではないだろうか。  

映画のラスト、現代の目玉おやじは、廃村となった哭倉村で、70年を経て今なおそこに残る妖怪・狂骨に語る。それは幼くして時貞の依代にされてしまった時弥の無念が産んだものだった。 「あれから長い時が経った。残念ながらこの国はあの日、君と夢見た未来とはほど遠い。相変わらず皆、心貧しく、苦しみ続けておる」  

人間だった時と同様に、おためごかしを言わない目玉おやじの言葉は痛烈だ。皆、未だに国家なり会社なり、そういう大きな存在に「血を吸われて」生きているのである。だからこそ、(自分の先を生きる若者たちのために)未来がよりよくなってほしいという願いと、歴史の中で無念を抱えて死んでしまったものたちを忘れないこと、はとても大切なことなのだ。
ひとつの村という狭い舞台ながら、物語が捉えようとしている範囲は大きく深く、水木しげる生誕100年企画にふさわいしい奥行きのある作品だった。


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