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児島気奈さん(撮影:ただゆかい)

高層ビルが林立する東京・西新宿――。その一角にあるオフィスビルの地下へと続く階段を下りると、お笑い劇場「西新宿ナルゲキ」に到着する。’21年にオープンした収容人数148人、白と紫を基調とした劇場だ。

開演前の劇場内を縫うように歩きながら、技術スタッフに指示を与え、トランシーバー越しにトラブルに対応し、受付の玄関マットに落ちているゴミを拾う一人の女性がいる。

ナルゲキを拠点にお笑いライブを主催したり、芸人のマネジメントを行っているK-PRO代表の児島気奈さん(41)だ。

「スタッフも含めて、いつも黒い服なんです。エンタメの世界なので“もっと明るい服装を”っていう芸人さんもいるんですが、やっぱり黒子に徹したいので」

そう語る合間にも、所属芸人が営業先の大阪に向かう新幹線に乗車したか、確認のLINEを送っている。

幼いころからお笑い番組が大好きで、高校時代からお笑いライブの手伝いを始め、ついには主催者に。常に心がけているのは“芸人ファースト”であること。

お笑いライブは芸人自ら会場費を出し合って開催するケースが多いなか、K-PROライブはギャラが支給される。そのうえ、楽屋に用意されるケータリングも豪華だと芸人たちの間で有名だ。

そんな気奈さんの熱意と愛が詰まったK-PROライブには有望な若手芸人が集い、三四郎アルコ&ピースモグライダー、M-1王者のウエストランドなどを輩出。

人気テレビ番組『アメトーーク!』(テレビ朝日系)でも“K-PROライブ芸人”が特集されるほどだ。主催するライブ数は年間1千本を超え、ついには芸人たちから「お笑い界の母」と呼ばれるように。

そんな母のような愛情で芸人の活躍の場を守り続けてきたのは、人を幸せにする“お笑い”の力を誰よりも信じてきたからだ。

■「介護に疲れた母を笑わせたくて」見せたお笑い番組が人生を変えた

ガッチャンガッチャンと機械音が響く町工場が密集する下町で、児島気奈さんはペンキ店を営む両親の長女として、’82年2月24日に生まれた。

「1階がお店で2階が自宅。塗装工の職人さんが集まっては宴会をする、にぎやかな家でした」

家で夕飯の支度をする母(67)を手伝うのは妹2人で、気奈さんはペンキを積み込んだ配達車に乗り込み、父(67)と得意先を回っていた。

「ペンキのにおいが充満する仕事の車はもちろん、何より父のことが好きでした。お笑い好きになったのも、食卓で父が冗談を言って笑わせてくれたから。少し真面目な高田純次さんという感じですね」

父の影響でお笑い番組や芸人の世界に引き込まれた気奈さん。小学校高学年のとき、“お笑いの力”を痛感する出来事が。

「寝たきりだった祖母が、介護する母にきつくあたることが増えていったんですね。でも母は、家事も店の切り盛りも介護もあってクタクタだったんです」

疲れた表情の母を癒してあげたい――。そう思った気奈さんは、お笑い番組のビデオコレクションから一本のテープを手に取った。

「エネルギーさんというコント師のネタを見せると、お母さんが涙出るくらい笑ってくれて! それが私にはうれしかったんです」

お笑いには、人を幸せにする力がある! と気づいた瞬間だった。

“こんなに素敵なお笑いは、みんなも好きに違いない”と信じて疑わなかった気奈さん。しかし、現実は違ったという。

「中学校の入学式の日、『お笑いが好きです』って自己紹介したあとつぶやきシローさんのモノマネをするとシーンとなって……。人生初すべりでした(笑)。

クラスの女のコは人気アイドルに夢中で、お笑い好きは幼く見えたのかもしれません。私も尖っていたので『わからないなら、もういいです!』とばかりに、女のコとしゃべることもなくなったんですね」

それでも、お笑い番組さえあれば孤独を感じることはなかった。

「朝から晩まで、家中のビデオをフル稼働させて、全番組を3倍録画。部活が終わって学校から帰ると、ビデオを早送りにして、お笑い芸人が一瞬でも出ていたらダビングして保存していたんです」

絶対に逃せないラジオ番組は、学校にこっそりラジカセを持っていき、トイレの掃除用具置き場で録音した。

「『笑っていいとも!』にネプチューンさんが出演するときは、給食の時間に家に帰ってテレビを見て、猛ダッシュで学校に戻ったりしていました」

携帯のメールもSNSもない時代、雑誌の文通コーナーは、情報収集の貴重な場。地方に住むお笑い好きに《NACK5ゴスペラーズのラジオを録音したテープがあるので、大阪の芸人が出るビデオと交換してください》と手紙を書いた。

そんな文通相手の一人からあるとき、《今度、お笑いライブがあるんだけど、お手伝いに行かない?》との誘いが。これを機に、気奈さんの運命が大きく変わる。

■35歳で亡くなった先輩芸人の思いを受け継ぎ、ライブ運営に本腰を入れる

文通相手と訪れたライブ会場では、年長の女性スタッフから手伝いの内容を指示されたが――。

「“どんな芸人さんが来るんだろう”ってすごく期待していたのに、知っている芸人さんがいなくて、がっかりしたんです」

すっかりやる気を失った気奈さんは、勝手に楽屋に入って上座の座布団で時間を潰すことに。しかも「土足厳禁」の意味がわからず、靴を履いたままだったという。

そんな姿をたまたま落語家さんに見つかり「お前は今日来た新人か? なんで畳の上なのに靴を履いているんだ」と怒られるも、気奈さんは不貞腐れたまま。すると、灰皿がバーンと飛んできた。

「それで妙なスイッチが入ったんです。“『いてくれてありがとう』って言ってもらえる存在になってやる!”って。見返してやろうと思ってしまったんです」

根はお笑い好きなのだ。その日を境に、芸人やスタッフに声をかけまくり、現場に駆けつけてお手伝い。「所作が汚い」「使えねえ」と罵声を浴びることもあった。

「それでも、お客さんが3人しかいないのにメチャクチャ緊張していたり、『お前がネタを飛ばすからいけないんだ』と舞台袖に戻った瞬間にけんかを始めたり、芸人のお笑いに対する向き合い方を間近で見ていると、どんどん応援したくなりました」

高校3年の秋には大学の指定校推薦が決まったため、ますますライブ会場に入り浸る毎日。

「ライブが終わるのは夜9時、10時。そのあとに打ち上げに行くと家に帰れなくなるので、4畳半の先輩芸人の家に転がり込んでいました。みんな貧乏なんですが“これこそ芸人だ”という空気感で居心地がよかったんです」

お笑い好きの父は、気奈さんがずっと家にこもってお笑い番組の編集をするより、ライブの手伝いをしながら人と関わるほうが安心だと、応援してくれた。

芸人として舞台に立つこともあったが、厳しさを痛感した。

「“もしかしたらテレビに出られるかも”って自信を持って舞台に上がっても、ずっとすべってました(笑)。それで“私には芸人は絶対無理だ”って思ったんです」

こうして、裏方の仕事が増え始めた。

「仲間内でお笑いライブを開催したいと話が持ち上がると、一番年下だった私が面倒なことは全部やるからと劇場を借りるときの代表者になって、受付や照明、音響、舞台転換などを担当するようになったんです」

2カ月に1回ほどのペースでお笑いライブを開催していき、本格的に主催者としてK-PROライブを立ち上げたのは’04年のこと。初回ライブこそ、超満員で大成功したが、2回目は宣伝を怠り、お客さんもまばら。芸人から「どんなにお客さんが少なくても、一生懸命にやるから」と、逆に慰められ、奮起した。

「動員を増やすため、憧れの芸人に出てもらいたいと、カンニングさんの所属事務所に私の履歴書を同封してオファーしたんです。でも『知らない女のコに、うちのカンニングは貸せない』と断られてしまいました。当たり前ですよね」

同じ方法でオファーしたのは、『ボキャブラ天国』で人気を博した元フォークダンスDE成子坂のツッコミで、ピン芸人として活動していた村田渚さん(享年35)。

「事務所からは断られたんですが、私の送ったFAXを渚さんが偶然目にして『本人が出たいと言ってるので』と連絡があったんです。すると別の芸人さんからも『渚さんが出るなら』とOKがもらえて」

ライブは大成功を収めた。後日、立役者の渚さんと飲みに行ったときのことだ。

「バナナでモノボケをしろとか、居酒屋で6時間くらい、大喜利をさせられました」

まるで気奈さんのお笑いへかける思いを測るように渚さんはお題を出し、時折「あの日のメンバーなら、500人は集客できる」「今で満足しちゃダメなの、ちゃんとわかってるよね?」と、厳しくも頼りになるアドバイスをしてくれた。

その渚さんが’06年くも膜下出血で35歳の若さでこの世を去ったことは、気奈さんの心境に大きな変化を与えたという。

「それまでお笑いライブの主催は趣味の延長でしたが、渚さんに出会って、『俺らが好きでそんなにお金使ってたなら、今度は俺らを使ってお金を稼がないと』と言ってくれたことでビジネスとして成立させたいと思うようになりました。

忘れられないのは、亡くなる数日前、渋谷の交差点で別れたときの後ろ姿。まだまだ芸人としてやりたいことがあると、夢を語っていました。芸人の夢を形にできる舞台を作りたい。渚さんからそんな思いを受け継いだんです」

(取材・文:小野建史)

【後編】M-1王者を輩出、若手芸人に活躍の場を…“お笑い界の母”児島気奈さんがK-PROライブにかける想いへ続く