弓岡敬二郎のコーチ就任と同時にオリックスに入団したイチロー(後列左)と田口壮(前列左)。前列右は当時の監督、土井正三氏(写真=共同通信社)
弓岡敬二郎のコーチ就任と同時にオリックスに入団したイチロー(後列左)と田口壮(前列左)。前列右は当時の監督、土井正三氏(写真=共同通信社)

【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第13回

【写真】元阪急の名ショートが語る昭和パ・リーグ豪傑伝

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第13回は、1980年代阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎が現役を引退し、コーチになった直後に入団してきた2人の逸材について回想する。(文中敬称略)

■イップスに苦しんだゴールデンルーキー

1992年シーズン、弓岡の現役引退、コーチ就任と時を同じくして、オリックスにはのちに球界を代表する選手になり、メジャーリーグでも活躍する金の卵が2人同時に入団してきた。

関西学院大学(関西学生野球連盟)で数々の記録を打ち立て、大学ナンバーワン遊撃手と評価されていた田口壮ドラフト1位で入団。そして、高校(愛工大名電)時代は投手で、世間一般には無名に近い存在だったイチロードラフト4位で入団した。2人は、当時33歳でコーチとしては同じく新人の弓岡から、主に守備や走塁の指導を受けることになった。

田口は入団1年目、「9番・ショート」として開幕戦に先発出場を果たした。しかし、この試合で一塁への送球が乱れるなど、プロ入り後は送球イップスに苦しんだ。投げ方に微妙なクセがあった田口は、当時の土井正三監督から「長くプロで野球を続けたいならば直すように」と言われて修正に取り組んだが、逆に送球のバランスを崩してしまい、田口いわく「どう投げていいかわからなくなってしまった」という。

送球が受け手の遥か上に行ったり、ひどい時にはスタンドにまで飛び込んでしまう。ストレスで突発性難聴になり、一時は現役を続けられるかどうかも危ぶまれた。そんな田口に新たな道を切り開くきっかけを与えたのは、1994年、新たに監督に就任した仰木彬だった。弓岡が振り返る。

「田口は、ノックしても守備範囲はもう抜群ですよ、日本一でした。ただ、スローイングがあかんかった。2年ほど、ああやこうやと試行錯誤したけど厳しかった。それで土井さんから仰木さんに監督代わった時、仰木さんから『外野行け』言われてね。外野でゴールデングラブを獲ったり、メジャーまで行きましたからね。コンバートさせた仰木さんの発想の転換ゆうのは、素晴らしいなと思いました」

仰木は、担当コーチとして田口と一緒に試行錯誤していた弓岡に、「小さな的でなく大きな的に投げるぶんには大丈夫やろ」と話し、外野にコンバートさせた。その結果、ベストナインを1回、ゴールデングラブ賞を5回受賞するなど、日本球界を代表する外野手に成長。さらに海を渡ってメジャーリーガーになり、ワールドシリーズに出場してチャンピオンリングも2度獲得したのだった。

2016年シーズンからオリックス二軍監督に就任した田口壮。翌シーズンからはふたたび弓岡と共に戦うことになる(写真=共同通信社)
2016年シーズンからオリックス二軍監督に就任した田口壮。翌シーズンからはふたたび弓岡と共に戦うことになる(写真=共同通信社)

■「鬼の弓岡」が「仏の弓さん」に

メジャーで8年間プレーした田口は、2010年シーズンから古巣オリックスに復帰。12年シーズン途中、現役引退を表明した。引退後は解説者などメディアの仕事をしていたが、16年シーズンからオリックスの二軍監督に就任することが決まった。そして翌17年シーズン、田口を支える役目の二軍育成統括コーチとして復帰してきたのが、前年、愛媛MPで前後期と年間総合優勝をすべて達成する「完全優勝」を実現した弓岡だった。

田口は二軍監督時代、自身のブログ(『ほぼ日刊イトイ新聞』「野球の人・田口壮の新章 はじめての二軍監督」)で新人の頃に出会った弓岡の印象について、こう記している。

《通称・弓さんです。
厳しいのです。恐怖の大魔王です。
僕が入団したころは、
誰よりも怖いコーチとしてチームを引き締め、
弓岡さん、という名前を聞いただけでも
震え上がるような存在でした。》

ところが、同じ指導者という立場になって再会した弓岡については

《っていうか、弓さん、めちゃくちゃ優しいじゃないですか!
あの、僕をしごきまくった
鬼の弓岡はどこにいったんすかあー!
他のコーチにいじられて、わろてはる‥‥
弓さんを平気でいじれるコーチの若さが怖過ぎる。》

と、時間を経た変化に驚いている。

同時に、新人監督の田口にとっては、かつて「鬼の弓岡」と呼ばれた恩師は心の拠りどころになっていたようだ。

《年下の僕が監督のチームで、
そのコーチを務めるというのは、
いろんな意味で難しいと思うのです。
しかも、かつてここで監督もされているのです。
しかし、弓岡さんのプライドは、
もっと深く大きいものなのでしょう。
そんな存在を得ることは、
今までひっちゃきになり、
自分がどうにかしなければ、と思ってきた僕にとっては、
初めて得た寄りかかれる存在であり、
どれだけの心の支えになるかわかりません。》

弓岡は今も田口と年に一度は会い、お互いの近況を報告している。同じ指導者という立場になってからは、野球の話はより深いものになった。NPB独立リーグに関係なく、いつかまた教え子の田口と一緒に野球ができればと密かに願っている。

弓岡は今も年に一度は田口と会っているという
弓岡は今も年に一度は田口と会っているという

■なんで僕がファームに落ちなあかんのですか

話題は田口からもう1人の教え子、イチローに変わった。入団当初から野球センスは抜群だったイチローだが、努力の量も並ではなかったという。

ルーキー時代、イチローは寮におりましたが、夜中の2時頃、『カーンカーン』とボールを打つ音がした。で、ファームの選手も遅うまで練習するんやな、と感心して覗きに行ったら、イチローが打っとるわけです。すでに一軍でも活躍していた時です。ナイターで試合が終わってから夜中、練習場に来て『カーンカーン』って。今うち(愛媛MP)にいる若い選手にも、イチローとは言わんでも、実力ある選手との差はやらなきゃ埋まらんで、とはよう話します」

プロ入り3年目にブレイク首位打者になったイチロー。しかし入団2年目までは、当時の土井監督や首脳陣からは認めてもらえずにいた。

「僕がコーチで一軍におって、イチローはファームと行ったり来たりしとる時です。土井さんはイチローに『おまえはボール球を振る』と指摘するわけです。確かにイチローはボール球、よう振ってた。そやけど1年目、ファームで首位打者です。2年目も、ファームで活躍しても上と行ったり来たりしよったんです。

2年目のある時、またファーム行け言われた時、イチローコーチ室に入ってきてね、なんで僕がファームへ落ちなあかんのですか。もっと成績の悪い選手おるやないですか、と訴えてきました。その時、おお、なかなか骨のある男やなと感心しました」

イチローは入団1年目、打率.366でウエスタン・リーグ首位打者を獲得するなど圧倒的な成績を残していた。しかし土井監督をはじめ首脳陣からは、弓岡が話したような理由や「足の速さを活かすためゴロを打て」という要求を受け入れなかったこともあり、一軍に定着できなかった。

2年目も二軍では前年から2シーズンをまたいで46試合連続安打を記録し、打率も.371と圧倒的な数字を残す。にもかかわらず、この年も一軍と二軍を行き来した。しかしこの間、二軍打撃コーチ河村健一郎と、のちにイチローの打撃スタイルの代名詞ともなる「振り子打法」を作り上げたことは有名だ。

前述したように、イチローが登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更した1994年シーズン、オリックス監督は仰木彬に代わった。やはりこれが大きな転機となり、イチロー伝説が始まった。

イチローは2年目のオフに、ハワイのウインターリーグに参加した。そこに監督就任が決まっていた仰木さんが、イチローが打ちまくっていると聞いて視察に来た。僕もコーチとして現地にいて、仰木さんから『イチローどうや』と聞かれて、十分(一軍で)いけます、と答えたことを覚えてます」

就任1年目、仰木監督イチローを一軍に呼び、2番に抜擢した。振り子打法も含めた打撃スタイルにも理解を示し、4月末からはイチローの個性をより活かすため、つなぎ役の2番から、出塁に重きを置く1番に打順変更した。

1番打者となったイチローは、5月から8月にかけて日本プロ野球新記録となる69試合連続出塁を記録。122試合目には日本プロ野球史上初となるシーズン200安打に到達するなど、最終的には210安打まで数字を伸ばし、打率.385で首位打者に輝いた。以降の活躍については説明するまでもない。

1994年9月11日、シーズン最多安打のプロ野球タイ記録を達成し、仰木監督と握手を交わすイチロー(写真=共同通信社)
1994年9月11日、シーズン最多安打のプロ野球タイ記録を達成し、仰木監督と握手を交わすイチロー(写真=共同通信社)

「仰木さんは選手を型にはめない。近鉄の監督時代も、野茂に対して『誰もいじるな、これでよかったんやから、絶対触るな』と言うてたと伺いました。野球の視点が広いんですよね。作戦でも『これしてあかんかったら、もうダメや』ではなく、『これしてあかんかったら、次はこれしたらどうなんやろ』ゆう考え方を持っとるわけです。野球に遊び心がありましたもん」

弓岡は、「田口もイチローも、仰木監督との出会いがなければ、のちの活躍はなかったかもしれない」と振り返り、「人間どこに適性があるかわからん。可能性があるなら、いろいろチャレンジさせるべき」と話した。

仰木監督が、田口やイチローといった若手の才能を見出し、2人が一流選手まで成長した様子を間近で見ることができたのは、弓岡の指導者人生にとってかけがえのない財産になっている。

以降、弓岡は、現役時代に支えた恩師、上田利治監督の理論的な面に、コーチとして仕えた仰木監督のような人材活用術、柔軟性を掛け合わせた指導を目指すようになったそうだ。

■素質を見出し野手から投手転向を勧めた選手

自身は、指導者の言葉は絶対で逆らうことは許されず、短所を直す指導が当たり前というなかで現役時代を過ごしたが、指導者になってからは選手とコミュニケーションをとるなかで特徴を把握し、個々に応じた可能性を探ることを大切にしてきた。

オリックスコーチ時代、弓岡は、ある選手の個性を見出し、開眼するきっかけを与えている。2016年のドラフト会議で、外野手として育成1位で指名されて入団した張奕(ちょう・やく)だ。

張は日本経済大学時代、福岡六大学リーグ本塁打王にもなった強打者だ。しかし、プロ入り後はファームでも結果を残せず伸び悩んでいた。そんな張の強肩に注目した弓岡は、入団2年目の18年シーズン途中、外野手から投手への転向を勧めた。

同年は外野手登録のままファーム公式戦に5試合登板し、防御率1.80をマーク。19年シーズンからは投手登録され、一軍デビューを果たし勝利投手にもなった。野手としてNPB球団に入った育成選手が、投手転向して支配下選手契約を勝ち取り、一軍公式戦の初先発で初勝利を挙げた事例は張が初めてだ。

インタビューを行なった愛媛・松山の『割烹鶏 一八』で、大将やお客さんらと野球談議に花を咲かせた弓岡(後列左)
インタビューを行なった愛媛・松山の『割烹鶏 一八』で、大将やお客さんらと野球談議に花を咲かせた弓岡(後列左)

時刻はまもなく午後11時。「割烹鶏 一八」で合流し、地鶏料理をツマミに夕方7時から始めたインタビューも4時間近く経過していた。そろそろお開きにして、明日に備えなければならない。弓岡は明日も午前9時から始まる全体練習に合わせてウエイトトレーニングをするそうだ。

「ほな、また明日

店の大将や常連客に見送られ、ほんのり赤ら顔になった弓岡は飄々(ひょうひょう)とした笑顔を見せて家路に向かった。

(第14回につづく)

弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年ドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている

取材・文・撮影/会津泰成

弓岡敬二郎のコーチ就任と同時にオリックスに入団したイチロー(後列左)と田口壮(前列左)。前列右は当時の監督、土井正三氏(写真=共同通信社)