(町田 明広:歴史学者)

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◉八月十八日政変160年―黒幕は中川宮と高崎正風か①
◉八月十八日政変160年―黒幕は中川宮と高崎正風か②

八月十八日政変の導火線―孝明天皇の決断

 文久3年(1863)8月16日中川宮は薩摩・会津両藩と連携し、即時攘夷派を追い落とすためのクーデターを計画し、参内して孝明天皇に決意を促す予定であった。しかし、天皇が痔疾患のため、出座が遅くなって時を逸してしまった。また、天皇は中川宮の進言にもかかわらず、即時攘夷派の勢威を恐れ、時期尚早として政変計画を退けたのだ。

 17日午前10時頃、会津藩公用方の秋月悌二郎は中川宮を訪問した。秋月は宮家諸太夫の武田信発から、「今日になって孝明天皇から中川宮に宸簡がもたらされ、薩摩藩と会津藩と申し合わせ、早々に奮発して欲しいとの希望が記されていた」ことを聞き及び、急ぎそのことを薩摩藩士高崎正風に伝えた。

 高崎は宮邸に急いで参内し、詳細を中川宮に尋ねた。宮は、孝明天皇は今夜会津・鳥取両藩に談合の上、政変を起こすことを期待しており、失敗した時の影響を心配して、中川宮・薩摩藩は政変に参画しないことを要請していることを開陳した。この間、非常に慎重であった天皇が、ここに至って初めて即時攘夷派廷臣の排除を決意したのだ。

 八月十八日政変への過程―前日17日の動向

 高崎正風は中川宮に対して、いかなる難問が後日になって薩摩藩に起こったとしても、それは構わないので、当初の予定通り中川宮が総指揮を執り、薩摩・会津両藩による政変断行の決意を固めることを要請した。さらに、近衛忠煕および二条斉敬にも参画の決断を迫るとし、もしも、近衛が聞き入れてくれない場合は、高崎の一命に換えてもお諫め申し上げると、並々ならぬ決意を言上した。

 高崎の政変への執念が功を奏し、宮はその覚悟であれば、自身も政変参画の決意をすると明言した。八月十八日政変の黒幕である、中川宮と高崎正風が本格的に始動を始めたのだ。ちなみに、薩摩藩の最高権力者である島津久光は、自身の名代として中川宮を指名していた。高崎は中川宮の判断を久光の判断と受け止めて、行動していることを付言したい。

 高崎は会津藩に二条斉敬の説得を依頼し、二条は同意すると回答した。高崎自身は近衛忠房を説得したところ、16日には躊躇していた近衛であったが、驚くほどに一転して政変参画への決心を述べ、さらに「この上は、近衛忠煕・忠房父子ともに参内して尽力しよう」とまで決意を伝えた。

 二条斉敬、近衛父子、徳大寺公純を含む中川宮派の連携がなり、高崎は会津藩と最終政変計画を策定した。「会来る 宮江出 陽明江出 策定ル」(「高崎日記」、8月17日条)とあり、簡潔な記述の中に政変前日の慌しい激動の一日が凝縮されていることがうかがえる。

政変当日の推移

 文久3年8月18日午前1時以降、中川宮派(宮を始めとして二条斉敬、近衛忠煕・忠房父子、京都守護職松平容保徳大寺公純)、京都所司代稲葉正邦が続々と参内を始めた。そして、会津・淀・薩摩の各藩兵による禁裏守衛配備が午前4時には完了した。この段階で、在京諸藩主の参内および両役(議奏・武家伝奏)、国事御用掛等の参内停止を命令した。

 この時点で朝議があり、三条実美以下の即時攘夷派廷臣の参内・他行・他人面会禁止、国事参政・寄人の廃止、長州藩の堺町御門守衛停止、藩兵の京都追放が決定したのだ。11時頃に参内した関白鷹司輔煕は、朝議決定を否定して即時攘夷派の復権を画策した。しかし、朝議決定を覆すことは叶わず、夕刻には鷹司邸に参集していた即時攘夷派が妙法院まで退散したため、政変は無血による成功を収めた。

 当日の主役は、中川宮および松平容保であり、薩摩藩は僅か150の兵力を動員できたに過ぎず、その役割は政変の画策に止まったと言えよう。しかし、結果として、以下に述べる七卿落ちに伴って、長州藩の主力が退京し、中央政局は新しい国是(対外方針)をめぐって次なる展開に移行することになった。

「七卿落ち」とは

 即時攘夷派廷臣の中で、以下の7人が八月十八日政変によって、長州藩に下向を余儀なくされた。いわゆる、「七卿落ち」である。なお、慶応期には2人減って「五卿」と言われた。

三条実美(27歳:従三位権中納言)
三条西季知(53歳:正二位行権中納言)
四条隆謌(36歳:従四位上行侍従)
東久世通禧(31歳:正四位下行左近衛権少将)
壬生基修(29歳:従四位上行修理権大夫)
錦小路頼徳(27歳:従四位上行右馬頭、元治元年(1864)4月27日、下関で病死)
澤宣嘉(28歳:正五位下行主水正、生野の変に参加、以後、別行動)

 文久3年8月24日に官位を剥奪され、事実上、廷臣の座を喪失した。元治元年(1864)7月、禁門の変時には長州藩世子毛利広封と率兵上京を企図したが、長州軍が撃退されてとん挫した。第一次長州征伐によって、慶応元年(1865)1月に太宰府に移転し、以後、主として薩摩藩の庇護の下、王政復古後まで同地に留まり、薩長融和に尽力し続け、王政復古に向けた策源地の様相を呈したのだ。

 次回は、八月十八日政変の最終回として、政変を総括するとともに、その歴史的意義に迫りたい。

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