静岡県1966年6月、味噌製造会社の専務宅が全焼して、焼け跡から一家4人の遺体が見つかった事件で死刑が確定した元プロボクサー、袴田巌さんの再審公判が今年10月から、ようやくはじまった。

"犯人"として逮捕された袴田さんは無罪を主張していたが、1980年最高裁判所で死刑が確定した。しかし、検察が証拠とした衣類に不自然な点が多かったこと、長時間の取り調べで判断力を奪われたことなどから、弁護側は冤罪をうったえてきた。

静岡地裁が2014年3月、裁判のやり直しである再審を決定して、袴田さんの死刑と拘置も執行停止となったものの、どうして10年近くも再審がはじまらなかったのか。そして袴田さんは今、何を思っているのだろうか。

『袴田巌 夢の間の世の中』(2016年)や『獄友』(2018年)など、冤罪をテーマにドキュメンタリー作品を撮り続ける映画監督、金聖雄さんに聞いた。(ライター・碓氷連太郎)

●検察のメンツを保つために「再審」が引き延ばされた

――再審の傍聴には行っていますか?

初公判には行きましたが、前回は抽選に外れたので傍聴できませんでした。当初は、年内に審理が終わって、来年3月に結審すると検察と弁護団が合意していたんですが、検察側が新たな証人を求めたので、もう少し長引くと言われています。現在、袴田さんをテーマにしたテレビ番組を作っているのですが、そのオンエアも延びる可能性があります。

――味噌タンクから発見された衣類が犯行時に着ていたもので、そこについていた血痕が証拠だとして、袴田さんは逮捕されました。しかし、当時の静岡県警の鑑定がずさんで、再審を認めた東京高裁は「捏造の疑い」にまで言及しています。なのに、いまだ検察は袴田さんが犯人だと主張しているのですか?

2014年に保釈された際、検察は即時抗告しました。その後、東京高裁が2018年、再審開始決定を取り消していたんです。これに対して、弁護側が特別抗告したことで、最高裁は2020年、高裁決定を取り消して差し戻しました。それから3年後の2023年2月に東京高裁が静岡地裁の再審開始を支持して、検察の抗告を棄却したことで、再審が開始されることになったんです。

検察が袴田さんを犯人だと主張し続ける理由として、よく言われるのは、過去に有罪とした県警や検察の「メンツ」を保つためということです。あくまでも証拠の捏造などなく、検察はやるだけのことをやって有罪を立証したというストーリーです。

判断は裁判所がするものだから、自分たちの主張と違っていても一応メンツは保てます。再審で無罪になっても法律的には控訴できるので、裁判所としてもそれを避けるために検察の言い分を受け入れて、彼らの「メンツ」を潰さないようにしているのだと思います。

――袴田さんは87歳、姉のひで子さんは90歳になりました。それなのに、まだ検察は続けるのですか?

「もう高齢だから」とか、そういう理屈で検察は動いていません。袴田さんは拘置所生活で精神を蝕まれたことで、意思疎通が難しいところがあります。最近、その傾向がますます強くなりました。なぜかというと、おそらく彼の中では「すべてが終わっているから」です。

2014年に保釈されたことで、自分の力で裁判を終わらせて、冤罪を晴らして、死刑制度を終わらせたという意識がある。なのに「再審、頑張りましょう」と支援者からも言われて、「終わったのになんでまだ騒いでるの?」と疑問に感じている。そんな状況になっています。

――日本では、死刑判決を受けた人の再審請求が認められたのは、戦後は袴田さんを含めて5件しかないとされています。冤罪を証明するのは、とても難しいことのように思えます。取り調べを可視化するなどすれば、冤罪そのものを生まない抑止力になるのでしょうか。

取り調べを可視化したり、証拠を開示するなどすれば、冤罪は少なくなると思います。強盗殺人で逮捕されて、29年間を獄中で過ごした「布川事件」の桜井昌司さんをはじめとして、冤罪が認められたのは、無期懲役の人を加えても戦後10人程度しかいません。

桜井さんは今年8月に亡くなりましたが、冤罪を生み出す警察や検察関係者に罰則を与えることを主張していました。さすがにそれは難しいとしても、すべての証拠の開示や無理な自白をさせないように、弁護士を同席させたりすれば、捜査側の意識も変わっていくのではないかと思います。

●冤罪被害者を「ポップ」に描きたい

――金さんは、袴田さんだけでなく、桜井さんを追った『オレの記念日』など、無罪を勝ち取った人たちのドキュメンタリーを制作しています。なぜ冤罪をテーマにしようと思ったのですか?

実は、確固たる意思に基づいているわけではなく、ある意味なりゆきでした。大学を卒業したあとに、『在日』という作品を撮った映画監督の呉徳洙さんの助監督をしたりしていたのですが、まだ独り立ちとまでは言えませんでした。本格的に助手から始めると、何年も辛い修行をしないとならないから嫌だけど、なんとかなるかなと思っていたときに「人権」をテーマにした啓蒙ビデオの演出を手がけることになりました。

そのときに今も無罪を訴え続けている石川一雄さん(狭山事件)に話を聞きに行ったんです。石川さんは、僕が勝手に思い描いていた「不遇な冤罪事件の被害者」と違っていました。それで、連れ合いの早智子さんとの関係から見た「ラブストーリー」として追っていくと面白いんじゃないかと思ったんです。

そんなことを考えていた2009年に新証拠が開示されるなど、急に動きが出てきていました。事件から50年を迎えるタイミングだったこともあり、2013年に初めて冤罪をテーマにした『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』を手がけました。

いざ撮影を始めてみると、同じ冤罪仲間の桜井さんと杉山卓男さん(布川事件)、菅家利和さん(足利事件)や袴田さんに会う機会ができました。全員が自分が思っていたような「強い使命感に燃える冤罪被害者」とは全然違って明るく、「冤罪で刑務所に入って幸せだった」なんてブラックジョークまで飛び出す。混乱しながらも、彼らを見ていて「これは冤罪をポップに描けるのではないか」と思ったんです。

――袴田さんも、石川さん繋がりで撮ることになったのですね。

2人は東京拘置所で一緒だったんです。今では、ひで子さんも狭山事件の集会に参加していますが、初めて会ったころのひで子さんは、常に堅い表情でした。「弟が出てくるまでは笑う気にすらならなかった」と本人も言っていますが、今では180度変わりましたね。

そんなひで子さんを撮りたいと思ったので、巌さんしかいなかったら、もしかしたら映画を作っていなかったかもしれません。ひで子さんは今年90歳を迎えましたが、この10年で今が一番元気なんじゃないかと思いますよ。

●大きな主語ではなく「目の前の人」を見てほしい

――12月に公開される新作『アリラン・ラプソディ』は、神奈川県川崎市に住む在日コリアンのおばあさん(ハルモニ)たちを描いています。同じテーマで制作した『花はんめ』(2004年)が土台になっているのでしょうか?

『花はんめ』は1999年ごろから撮り始めたのですが、みんな元気だったので撮り続けたくて、広島や沖縄など、ハルモニたちの旅行に付いて行ったりしてたんです。他の仕事が忙しくて間があいた時期もありましたが、2015年11月にはハルモニたちが住む川崎市桜本に、ヘイトデモが押し寄せるという出来事がありました。

その年の9月に彼女たちが主導した、ステキな「戦争反対デモ」があったので、同じ場所にヘイトデモが来ることに気持ちの整理がつかなくて、悶々と悩むうちに、在日の生活の積み重ねの中には常に差別があったことや、ハルモニたちがなぜ桜本にいて、なぜここで死んでいこうとするのかを考えるようになりました。それで『花はんめ』の映像も交えながら、新作を作ろうと思ったんです。

『花はんめ』では、とにかく戦争や植民地支配から入るのではなく、ハルモニたちと今と未来を描こうと思って、過去のことは一切聞かないと決めていました。でも自分たちから話し出すし、とにかく元気に動き回って、あるときなんか、みんなで水着を買いに行って、プールにも入ったりする。そんな様子が面白くて、撮り続けていました。ハルモニたちも、かつては写真を撮られるのも嫌がっていたのに、今では「これは私たちの映画だ」という意識が強い人もいます。自分たちが映画になったことで、人生を肯定された気持ちになれたのかもしれません。

――「そこにいる人」に魅了されたから、冤罪や在日のおばあさんをテーマに選んだのでしょうか?

職業監督であるという意識があるので、商業作品として売れるものを作らないといけないという考えはあります。それでも自分が楽しいなとか、ステキだなと思う相手じゃないと撮り続けることができません。だから、誰でもいいわけではありません。若いころに散々苦労しながら生き抜いてきたハルモニたちの魅力に惹かれたから撮ったんです。

冤罪被害者もハルモニたちも、それぞれのやり方で鼓舞しながら、前向きに生きている。そういう姿を見ていると、「あれ? 苦労したのに幸せそうだぞ」と思うようになり、「そもそも、幸せとは何なのか」とまで考えてしまいました。

「在日」とか「冤罪」とか、大きな主語で見てしまうと、1人の人生にたどりつけなくなってしまうかもしれない。一方で、目の前の人が何を思い、何に苦しんでいるかを知ることで、見えてくるものはあると思うんですよ。なぜ在日コリアンが日本にいるのか、その歴史も含めて韓流だと思うので、韓流が定着した中で「在日コリアンに興味はあるけれど、よくわからない」という人にぜひ見てもらいたいと思います。

【プロフィール】金聖雄/きむ・そんうん
1963年大阪・鶴橋生まれ。『花はんめ』(2004年)『空想劇場』(2011年)『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』(2013年)、『袴田巖 夢の間の世の中』(2016年)『獄友』(2018年) 『オレの記念日』(2022年)など、ドキュメンタリー映像作品を撮り続けている。『アリラン・ラプソディ』は12月16日より川崎アートセンターで特別ロードショー後、2024年2月中旬より全国で順次公開予定。

「冤罪被害者の明るい姿をポップに描きたい」 袴田事件追うドキュメンタリー監督の原動力