快進撃を続ける映画『ゴジラ-1.0』で獅子奮迅の働きを見せる駆逐艦「雪風」。幸運艦として知られる同艦はいつ生まれ、いつ退役したのでしょうか。実は最期は日本ではなかった、数奇な運命を辿った同艦について振り返ります。

「雪風」就役は日米開戦の1年前

日本艦艇の中でも「幸運艦」として抜群の知名度と人気が高さを誇る駆逐艦「雪風」。なぜ同艦がそこまで有名なのかというと、太平洋戦争開戦時のフィリピン攻略作戦から、戦艦「大和」最後の出撃となった坊ノ岬沖海戦まで第一線で戦い抜き、沈むことなく終戦まで生き抜いたからです。

日本海軍は甲型駆逐艦として陽炎型19隻、夕雲型19隻を建造しましたが、この中で終戦まで生き残ったのは「雪風」のみ。だからこそ乗艦した将兵や海軍関係者から「奇跡の駆逐艦」「世界一の強運艦」などと称えられています。

しかも「雪風」は戦後、引き揚げ輸送用の復員船となって、外国に取り残された多くの日本人将兵を祖国へと送り届けました。

そんな「雪風」が2023年11月に封切られた映画『ゴジラ-1.0』で、駆逐艦「響」と共に登場しています。対ゴジラ用に改造されたとはいえ、「雪風」の船体やブリッジが現代の映像技術で登場する貴重な作品。日本屈指の知名度を誇る駆逐艦がどのような戦歴を歩んだのか改めて振り返ってみましょう。

陽炎型ワシントン海軍軍縮条約の失効後に整備された艦隊型駆逐艦です。基準排水量は2000トン。速力は35ノット(約64.8km/h)の快速を発揮することが可能。なお、1930年代半ばに相次いで起きた友鶴事件第四艦隊事件といった海難事故の教訓を取り入れ、復元性能や耐久性能を向上させました。

主武装は、12.7cm連装砲3基6門と61cm四連装魚雷発射管2基。新造時から2万m以上の長射程と50ノット(約92.6km/h)以上の高速で航走する旧日本海軍の秘密兵器、九三式酸素魚雷を搭載しており、艦隊決戦時には戦艦同士が遠距離で砲戦を行う中、敵艦に肉薄し雷撃を行うことが求められていました。

「剛強にして機敏、世界に冠絶する駆逐艦」(伊藤正徳氏)である「雪風」はそうした陽炎型の8番艦で、佐世保海軍工廠で1940年1月20日に竣工。太平洋戦争開戦直前には、同型艦の「時津風」「天津風」「初風」とともに4隻で第16駆逐隊を構成しており、軽巡洋艦「神通」を旗艦とする第2水雷戦隊に所属していました。

「雪風」の初陣はフィリピン

「雪風」の初陣となったのは1941年12月11日に始まったフィリピン・ルソン島のレガスピー攻略戦です。この時は第二水雷戦隊第16駆逐隊第1小隊に所属する「雪風」と「時津風」が、軽巡洋艦「長良」を旗艦に編成された第4急襲隊に入り、フィリピン攻略で派遣された陸軍の歩兵第33連隊や海軍陸戦隊などの上陸を支援しています。

年が明けて1942年2月。「雪風」は初めての海戦に挑むことになります。後にスラバヤ沖海戦と呼ばれるこの戦いで、日本軍ジャワ島攻略を阻止しようと動いた連合国軍の艦隊は壊滅。イギリス重巡洋艦エクセター」や、オランダ軽巡洋艦デ・ロイテル」「ジャワ」などが沈んでいます。この時、「雪風」も海戦に参加し、魚雷を発射するなどしました。

しかし、日本軍の攻勢に陰りが見えてくる日がやってきました。同年6月のミッドウェー海戦です。「雪風」はミッドウェー占領部隊を乗せた船団の護衛に就いていましたが、途中で空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾し戦闘不能になったとの連絡が入ります。第一機動部隊に合流するため急行するも、そこには大火災を起こした「赤城」が浮いており、夜戦中止や反転命令を受けたことで「雪風」は現場海域を離れました。

その後起きた南太平洋海戦では空母「瑞鶴」の直衛として、対空戦闘や「翔鶴」搭載機の搭乗員救助などに従事。第三次ソロモン海戦では軽巡洋艦アトランタ」や「ジュノー」などにダメージを与えましたが、戦艦「比叡」が戦闘不能に陥ったことで、同艦に座乗していた第11戦隊の阿部弘毅司令官や西田正雄艦長ら乗員を収容しつつ、敵機の空襲をくぐり抜けてトラック泊地まで戻ってきています。

1943年にはガダルカナル島からの撤収作戦、ダンピール海峡の惨劇として知られるビスマルク海海戦に参加。ダンピールでは日米開戦時からの僚艦「時津風」を失いました。一方で夜戦となったコロンバンガラ島沖海戦では旗艦「神通」が集中砲火を受ける中で、「雪風」は魚雷攻撃を行い、ニュージーランド軽巡洋艦「リアンダー」を大破させたとされています。

日本最大の空母「信濃」の護衛にも

日本の戦況は1944年に入るとますます厳しくなり、特に米潜水艦による輸送船への攻撃とその被害は増していました。「雪風」は同型艦「天津風」や空母「千歳」と共に輸送船団の護衛に投入されたものの、そこで「天津風」が雷撃を受けて船首切断という事態に陥ります。

こうして「雪風」ただ1隻のみとなった第16駆逐隊は解隊。「浜風」「浦風」「谷風」「磯風」で編成されている第17駆逐隊に編入されました。

1944年6月のマリアナ沖海戦では、タウイタウイ泊地スクリューが破損した影響から全速発揮ができないため、第2補給部隊に入りタンカーの護衛を行いました。なお同海戦で日本海軍は空母「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」を失う壊滅的な被害を被っています。

10月のレイテ沖海戦では、第17駆逐隊の各艦と共に第3戦隊の戦艦「金剛」「榛名」に当たっていましたが、重巡洋艦「愛宕」「高雄」「摩耶」と立て続けに潜水艦の雷撃を受ける様子や米艦載機の攻撃を受けて瀕死の状態となった戦艦「武蔵」など、次々と脱落する友軍艦艇の姿を目の当たりにすることになります。そしてサマール沖海戦では念願となる水雷戦隊による空母部隊への突撃と魚雷発射を行い、駆逐艦「ジョンストン」と交戦してこれを沈めています。

ただ「雪風」はこの後、さらに僚艦と護衛していた大型艦を失うことになります。11月21日には台湾沖で戦艦「金剛」と駆逐艦「浦風」が撃沈され、11月29日には横須賀から呉へ回航途中の空母「信濃」が沈みました。

スクリーンに再現されたのも幸運だからこそ

そして日本海軍水上部隊の最後を飾った坊ノ岬沖海戦。米機動部隊艦載機の攻撃を受ける中、駆逐艦「雪風」の寺内正道艦長は艦橋の天蓋から顔を出して対空戦闘を指揮しました。ちなみに寺内艦長は操艦の指示を、すぐ下にいる中垣義幸航海長の肩を蹴ることで行っていたとか。

戦艦「大和」も軽巡洋艦「矢矧」も沈み、第17駆逐隊として戦ってきた「浜風」も喪失。「磯風」は航行不能に陥ったため、「雪風」によって処分されました。

こうして戦いを潜り抜けた「雪風」は舞鶴で1945年8月15日、終戦の日を迎えます。戦後は特別輸送艦となり、武装を撤去した上で仮設の居住区を置いて復員輸送に従事し、南方や中国から約1万3000人もの邦人を日本まで運びました。「雪風」で復員した中には、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者として有名な、水木しげる氏もいます。この間には「雪風」楽団によって「復員者を迎える歌」という曲が作られ、艦内で演奏されていたようです。

復員船としての役割を終えた「雪風」は、賠償艦として中華民国(現在の台湾)へ引き渡されることが決まり、1947年7月1日、佐世保を離れました。中華民国海軍では艦名を「丹陽」と改め、1966年に除籍されるまで同国海軍に所属していました。

退役が決まった後は、関係者らによる返還運動もありましたが、結局、台湾で解体され、日本には舵輪と錨が返されるにとどまりました。1971年海上自衛隊横須賀基地で行われた贈呈式には海上護衛司令長官などを務めた野村直邦元大将や艦長の寺内元中佐、東日出夫元中佐らが出席しています。また、式典では内田一臣海上幕僚長が「雪風」について「最も良くかつ精強に戦い、最も幸運に恵まれた艦」と評しています。2023年現在、この2つは広島県江田島海上自衛隊第1術科学校に保存・展示されています。

このように、いまや「雪風」の姿は写真もしくはイラストなどでしか見ることができません。しかし幸運艦であるがゆえに、その名は戦後初の国産護衛艦はるかぜ型の2番艦「ゆきかぜ」に受け継がれ、さらに冒頭に記したように、『ゴジラ-1.0』においてCGで蘇ったのです。

作家の豊田 穣氏は著書「雪風ハ沈マズ」で、最後を「日本海軍を代表した『雪風』の活躍ぶりは、日本人の胸に長く刻みおかれるべきだろう」という一文で結んでいます。日本が生んだ偉大なキャラクター「ゴジラ」と共演できたことこそ、「雪風」の幸運の象徴といえるでしょう。今回の『ゴジラ-1.0』で主人公たちの乗る船として活躍した艦、ひょっとしたらこれを機に、より一層映画に出演するようになるかもしれません。

太平洋戦争終結後、復員船となった「雪風」。1947年5月に撮影されたもの。映画『ゴジラ-1.0』で描かれているのは、この時期の姿(画像:アメリカ海軍)。