文=鷹橋 忍 

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 大河ドラマ『どうする家康』最終回では、大坂夏の陣が描かれた。

 今回は、その豊臣氏の当主・作間龍斗が演じた豊臣秀頼に嫁いだ徳川家の姫、原菜乃華が演じた千姫を取り上げたい。

 

2歳で豊臣秀頼と婚約?

 千姫は、慶長2年(1597)4月、伏見で生まれた。

 父は、森崎ウィンが演じた徳川秀忠。のちの徳川二代将軍で、当時19歳。

 母は、マイコが演じた「江」で、千姫の出産時、25歳だったといわれる。江は大貫勇輔が演じた浅井長政北川景子が演じたお市の間に生まれた「浅井三姉妹」の三女で、北川景子がお市と二役で演じた茶々の妹にあたる。

 千姫は、江が秀忠に嫁いでから二年目に授かった、待望の第一子であった。

 豊臣秀吉は、この千姫と我が子・豊臣秀頼との婚約を遺言で定め、慶長3年(1598)8月18日に死去した(福島千鶴『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』)。

 だが、すぐに輿入れが行なわれたわけではない。

 当時、秀頼は数えで6歳、千姫は2歳であり、輿入れは、もう少し成長してからという取り決めであったとされる(福島千鶴『徳川秀忠』)。

 千姫が秀頼に嫁ぐのは、慶長5年(1600)の関ケ原合戦から四年後、慶長8年(1604)のこととなる。

 

徳川方は乗り気でなかった? 秀頼との結婚

 関ケ原合戦に勝利し、天下の実権を握る実質的な「天下人」となった家康(本多隆成『徳川家康の決断』)は、慶長8年(1603)2月、征夷大将軍に就任。豊臣政権とは別個の、家康による徳川政権「江戸幕府」を創始した。

 しかし、家康の征夷大将軍就任と同時に、秀頼が関白に任官するという噂も流れており、豊臣氏が政権を失ったわけではないとの見方も存在したという(小川雄「秀吉死後の政局と将軍就任」 黒田基樹編著『戦国大名の新研究3 徳川政権とその時代』所収)。

 千姫の入輿は、このように徳川と豊臣が微妙な関係のなか、同年7月に行なわれた。千姫7歳、秀頼11歳のときのことである。

 この婚姻は秀吉の遺言で決められたことであるが、徳川方は手放しで喜んでいたわけではなかった。徳川と豊臣の円満な関係を願う千姫の母・江と、秀頼の母・茶々の尽力によって、実現した部分が多かったという(福田千鶴『豊臣秀頼』)。

 いずれにせよ千姫は、7月28日、秀頼の待つ大坂城に入輿し、豊臣氏のもとでの暮らしがはじまった。

 江は豊臣氏に嫁ぐ千姫の行く末を心配するあまり、大坂まで付き添ったという(「渓心院文」東京大学史料編纂所編『大日本史料 第12編之1』所収)。

千姫と茶々は不仲ではなかった?

 一説に、敵方の徳川の姫ということで、茶々は千姫に冷たく接した、あるいは、人質として扱ったともいわれる。

 だが、茶々にとって千姫は、妹の娘である。辛くあたったとは考えにくく、大切に育てられたと想像される(福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』)。

 千姫は大坂城で成長し、16歳となった慶長17年(1612)には、鬢除ぎの儀が行なわれた。

 鬢除ぎの儀とは、男子の元服式にあたる女子の成人儀式である。婚約者、またはその父兄が、成人の証として鬢の先を切るのだ。

『おきく物語』(中村通夫 湯沢幸吉郎校訂『雑兵物語』所収)によれば、碁盤の上に立った千姫の髷を、秀頼が筍刀(式に用いられる小刀)で少し切り初めたという。

 なにやら微笑ましい光景である。

 この儀式により千姫は成人となり、千姫と秀頼は夫婦となったという。

『どうする家康』淀殿(茶々)、親の仇・秀吉の側室となった生涯と秀頼との絆

 

豊臣氏滅亡

 その後、徳川と豊臣は緊張を深め、慶長19年(1614)11月に「大坂冬の陣」が始まった。

 冬の陣の講和で大坂城の堀が埋められ、慶長20年(1615)4月から始まった「大坂夏の陣」により、5月7日大坂城は陥落した。

 千姫は落城の直前に、玉山鉄二が演じた秀頼側近の大野治長が脱出させ、秀頼と茶々の助命嘆願のため、家康のもとに送られた。

 千姫は夫と義母の助命を請うたが、父・秀忠の判断で拒否されたという(小川雄・柴裕之編著『図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の〝天下人〟』)。

 翌5月8日の朝、秀頼と茶々が自害し、豊臣氏は滅亡の時を迎えた。千姫、19歳の時のことである。

 秀頼と義母で伯母でもある茶々の死を知った千姫は、何を思ったのだろうか。

本多忠勝の孫に再嫁

 豊臣氏滅亡後、千姫は江戸に戻り、翌元和2年(1616)に、本多忠刻(山田裕貴が演じた本多忠勝の孫)に再嫁した。

 当初、千姫と忠刻は伊勢国桑名(三重県桑名市)で暮らした。

 だが、翌元和3年(1617)7月、忠刻の父・本多忠政が播磨国姫路十五万石に転封となると、忠刻も播磨国に十万石を賜わり、忠政の居城である姫路城に移り住んだという(『寛政重修諸家譜』)。

 千姫は、秀頼との間に子はなかったが、忠刻との間には、長女・勝姫と、嫡子の幸千代を授かった。

 しかし、幸千代は僅か3歳で夭逝し、夫・忠刻も寛永3年(1626)に31歳で、死去してしまう。

 千姫はまだ30歳であったが、江戸に戻り、同年12月6日に落飾して「天樹院」と号した。

 娘の勝姫は、父・秀忠の養女として、寛永5年(1628)に、鳥取藩主・池田光政の室となっている。

 その後、千姫は再嫁することはなく、寛文6年(16662月6日に70歳でこの世を去り、松嶋菜々子が演じた於大の方(家康の生母)も眠る、伝通院(東京都文京区)に葬られた。

◉『どうする家康』徳川家康の母・於大の方、戦国を生きた女の生涯とゆかりの地

 

千姫の養女・天秀尼

 最後に、千姫の養女・天秀尼をご紹介しよう。

 千姫の最初の夫・豊臣秀頼には、千姫以外の女性が産んだ一男一女がいた。

 慶長20年(1615)の大坂城の落城時、男子は8歳、女子は7歳であったという。

 男子は国松といい、同年5月23日に、京都六条河原にて処刑された。

 女子は、千姫の強い願いもあって命を助けられ(福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』)、千姫の養女として、東慶寺(神奈川県鎌倉市)に入寺した。

 彼女はのちに、「二十世 天秀尼(天秀法泰尼)」となり、創建以来の繁栄を極めたという。

 千姫は秀頼の娘を守ったのだ。

【千姫ゆかりの地】

姫路城

 国宝にして、日本で初の世界文化遺産

 西の丸の「化粧櫓」は、千姫の化粧料で建てられたことに由来するともいわれる。

 

●東慶寺

 神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺院。

 鎌倉時代の弘安8年(1285)に、北条時宗の夫人・覚山尼が開いた。

「かけこみ寺」の名で知られ、かつては、駆け込めば「縁切り寺法」により離縁が叶う、女人救済の寺であった。

 豊臣秀頼の娘で、千姫の養女の天秀尼は東慶寺二十世である。

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姫路城 写真=アフロ