歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

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信玄はなぜ頼重を攻撃したのか?

 天文10年(1541)6月、甲斐国の武田信玄は、父・信虎を追放し、家督を継承しました。しかし、1年ほどは軍事行動をしていません。具体的なことは不明だが、内政に精を出していたのでしょう。

 信玄が国外に出陣するのは、天文11年(1542)のことでした。出兵先は、信濃国の諏訪です。同地の諏訪頼重(諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝であった)は、信玄の妹・禰々を娶っており、2人の間には寅王丸という幼少の男子がいました。

 頼重は家臣や同族(高遠の諏訪頼継)と対立。信玄は諏訪氏の内訌を察知し、調略を仕掛け、頼継などを味方とします。頼重は、武田軍襲来を当初、信用しなかったようです。

 高遠(諏訪)頼継が攻め込んできたことで、やっと重い腰を上げますが、千人ほどの軍勢が集まったのみ。武田の大軍を前に兵士が逃亡したこともあり、頼重は本拠の上原城を放棄。他城に移りますが、支えきれず7月4日に開城します。

 この開城も、武田側から降伏後の好条件を提示されてのものと言われています。頼重自身は、此の期に及んでも、信玄を信用し、信玄とともに、対立する高遠頼継を討伐しようと思っていたといいます。ところが、それは甘い考えであり、頼重・頼高兄弟は甲府に護送され、同月下旬に切腹させられてしまうのです。

 信玄は頼重をなぜ攻撃したのか? 天文10年7月に、関東管領・上杉憲政が信濃国佐久・小県郡に攻め込むという出来事が起こります。が、頼重はこれに対抗しようとしますが、最終的には上杉方と和睦。同盟を結んでいたにもかかわらず、一言の相談も無しに、上杉氏と和睦(領土分割に関する取り決めもあり。上杉軍の攻撃により、武田方は信虎の時代に得ていた佐久・小県の領土を失う)した頼重に不信感というよりも怒りを信玄は募らせていたと推測されます。それが、天文11年の諏訪侵攻に繋がったのでしょう。

 頼重は滅びましたが、高遠頼継は諏訪郡全域を掌握せんと狙っていましたので、武田と衝突するのは時間の問題でした。

 同年9月、頼継は諏訪を制圧。信玄は当然、これに対抗、出陣するのですが、その際に前面に出したのが、頼重の遺児・寅王丸でした。信玄は寅王を擁して、出陣したのです。するとどうなったか? 諏訪一族やその遺臣らが、武田方に続々と加勢したのでした。結果、武田軍は、頼継方を撃破(9月下旬)。10月には諏訪郡を平定するのです。

 諏訪の象徴的存在(寅王)を担ぎ出すことにより、諏訪衆を味方にするという信玄の戦略が功を奏したと言えましょう。とは言え、寅王(千代宮丸に改名)は諏訪家を継ぐことはなく、その後、流浪の身となり、没年さえも定かではありません。

 信玄は滅ぼした諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室に迎えていますが、それは天文11年12月のことでした。頼重の娘を側室に迎えることに、武田家臣の多くが「危険だ」として反対しましたが、山本勘助のみは賛同したといいます(『甲陽軍鑑』)。諏訪御料人が信玄の子を産めば、武田家と信濃の名門・諏訪家との紐帯となると考えたからです。

 この逸話の真偽は分かりませんが、諏訪御料人は信玄の子を産んでいます(1546年)。後の武田勝頼です。ちなみに勝頼は当初、諏訪家を継いでいたので、諏訪四郎勝頼と名乗っていました(「頼」というのは諏訪家の通字)。

「アウェイ」は危険が一杯

 さて、信濃国の諸城を順調に攻略していく信玄の前に立ちはだかったのが、信濃国葛尾城主の村上義清でした。かつて、武田家と村上家は友好関係にありましたが、武田の信濃進出により、敵対することになります。

 天文17年(1548)2月上旬、信玄は義清と戦うため、甲府を出陣。一方、義清も本拠地の坂木を出立。上田原(上田市)に陣をはる武田軍。千曲川を挟み向かい合う両軍。そして、2月14日、ついに両軍は激突します。

 結果は武田軍の惨敗でした。武田の有力武将(板垣信方甘利虎泰ほか)が次々と討死、信玄も負傷したのです。700人余りが戦死したと言います。

 なぜ、武田軍は敗れたのか? 武田軍はアウェイ(敵地)での戦で、村上軍は地の利をよく知っていたからという説もあります。敗北したにもかかわらず、信玄は同地を動きませんでした。3月26日になって、やっと甲府に帰還することになるのですが、それには信玄の生母・大井夫人の書状による説得があったからとされます(信玄説得を依頼したのは、武田重臣でした)。

 アウェイというのは危険が一杯。敗れて退却を余儀なくされたり、大将が討ち死にしてしまったりということがよくあります。駿河の大名・今川義元織田信長で討ち取られたのは、侵攻先の尾張国の桶狭間でした。その信長も越前国の金ヶ崎において(北近江の武将・浅井長政の裏切りにあい)、退却の憂き目をみています。

 アウェイというのは、余程、注意しないとピンチに陥ったり敗退してしまう可能性が高い。かつて、稲盛和夫は、京セラが海外進出を本格化させた時、「社内で所を得ていない「半端もん」、つまりは愚人を引き連れて敵地」(海外)に乗り込んだそうです。優秀な社員をあえて本拠に残したとのこと。その理由は「敵地を攻めている間に自分の城を取られてしまったのでは元も子もありません」というのが1つ。

 もう1つは、愚人を過酷な環境に放り込んで「ひとかどの武将」に育成することにありました。最初は大変だったようですが、「半端もん」も揉まれて、成長すれば「新しい領土は取れるし、人は育つしで一石二鳥」だったと言います(「稲盛和夫が「『愚かな部下』を引き連れて敵地を攻めよ」と断言した理由」『マネー現代』2022・9・1)。重臣を多数引き連れて、戦をしてしまったことも、信玄の失敗の1つと言えるのかもしれません。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

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