『つい人に話したくなる名画の雑学』(ヤスダコーシキ/KADOKAWA)第6回【全7回】

「昔の風俗をつぶやくよ」ことヤスダコーシキ氏が、落ちついた語り口をベースに、独自の解釈をネットスラングなども用いてわかりやすく絵画を解説。
名画のモチーフや当時の背景、作家の人生など、絵画にまつわる雑学を誰でも楽しく知ることができます。軽妙で読みやすい文章は、長文でもさらっと読めるほど。ヤスダコーシキワールドに惹き込まれれば、あっという間に1冊を読破してしまいます。
読後感は「おもしろかった!」と充実したものになること確実。絵画に興味がある人はもちろんのこと、絵画に対してハードルが高いと感じている人や、長文が苦手な人でも楽しめる1冊です!

いま、編集部注目の作家

つい人に話したくなる名画の雑学
『つい人に話したくなる名画の雑学』(ヤスダコーシキ/KADOKAWA

つい人に話したくなる名画の雑学
1885~1886年 油彩、キャンバス 1200×1185㎜ オスロ国立美術館ノルウェー、オスロ)

ムンクの姉ソフィー、死期を悟った彼女の瞳

『病める少女』

エドヴァルド・ムンク 【ノルウェー 1863~1944年

いつものムンクの作風とどこか異なる悲しみの絵画

 ムンクの作風は、どこか人を不安にさせるのが特徴です。しかし、この絵はとても悲しい気持ちにさせられます。

 ベッドに寝ている少女は結核により10代で早世したムンクの姉ヨハンナ・ソフィー。彼女の母は既に亡くなっているので、横で嘆く女性は叔母でしょう。ソフィーの表情は優しげですが、その瞳には自分の死期を悟った諦めの色が浮かんでいます。彼女の命がもう長くないことを指し示すように、右側に描かれたカーテンは深い闇を孕んでいます。ムンクはどんな気持ちでこの絵を描いたのでしょうか。

かの有名な『叫び』も愛と死と不安がテーマ

 ムンクはノルウェーの王立絵画学校に学んだ後、パリに留学。印象派らの影響を強く受け、「生命のフリーズ」と呼ばれる作品群を発表。これは愛と死と不安をテーマにしたものでムンクの『叫び』もこの作品群の中に含まれます。ピストルで怪我をする、精神病院に入院するなど波乱万丈でしたが、ノルウェー政府からは認められており、ノルウェー国立美術館が何点も彼の作品を購入するなど一定の評価を受けました。

つい人に話したくなる名画の雑学
『叫び』 1893年 油彩、カゼイン、パステル、厚紙 910×735㎜ オスロ国立美術館ノルウェー、オスロ)

つい人に話したくなる名画の雑学
1894年 油彩、キャンバス 1250×940㎜ ベルヴェデーレ・オーストリア絵画館(オーストリアウィーン

衰弱した兵士伸ばした手の先には……

『親愛なる訪問』

マクシミリアン・クルツヴァイル 【チェコ 1867~1916年】

愛馬と会うという兵士の最期の望み

 重い病気に侵された時、あなたは誰に会いたいですか? 付き添いの男性らの服装から判断するに、彼らは19世紀末オーストリア騎兵でしょう。ベッドの男は戦場で傷ついたのでしょうか。体を自分で起こせない程に衰弱しています。本来、病院は動物を入れるのが禁止されている場所なので、馬を入れるというのはよほどのこと。ひょっとすると、彼の最期の望みが愛馬と会うことだったのかもしれません。馬に伸ばした手に愛を感じます。

 ウィーン美術アカデミーで学んだクルツヴァイルは、パリに留学しアカデミージュリアンに入学します。後に地元ウィーンで活動しますが、何といっても彼の経歴で特筆すべきは「ウィーン分離派」への参加です。

 19世紀の伝統芸術からの分離を目指し、グスタフ・クリムトを中心として1897年に結成されたこのグループに彼は創設メンバーとして名を連ねていました。分離派の機関誌創刊にも尽力しましたが数年後に脱退しています。

つい人に話したくなる名画の雑学
1917年 油彩、キャンバス 1016×813㎜ 個人蔵

英雄ロビン・フッド 最後に放つ矢の行方は?

ロビン・フッドの死』

ニューウェル・コンヴァース・ワイエス 【アメリカ 1882~1945年

正義を貫いた森の英雄ロビン・フッドの最期

 シャーウッドの森の英雄ロビン・フッド。悪い貴族や僧侶から金を奪い取り、貧しい庶民に与えたという英国の義賊です。絵画では、その最期を描いています。

 体調不良により、尼僧の瀉血治療と呼ばれる、血を抜くことで悪い血を出すという迷信による治療を受けることにしたロビン。しかし尼僧は敵に通じており、彼は致死量の血を抜かれてしまいます。死を覚悟した彼は最後の矢をつがえ、相棒リトル・ジョンにこう言うのです。「この矢が落ちた所に私の墓を掘ってくれ」。

 ワイエスは20世紀米国を代表するイラストレーター。同じく米国のハワード・パイルの弟子となり、スティーヴンソンの名作『宝島』の挿絵で大成功を収めます。その後『モヒカン族の最後』『ロビンソン・クルーソー』などビッグネームを次々と手掛けました。油絵など絵画の世界においては、現代社会の人々の生活や日常を描くというアメリカ写実主義に傾倒しています。

瀉血治療

 中世から18世紀終わりまで、西洋医療では血を抜く瀉血治療が盛んに行われていました。中世まで、実践するのは僧侶の役目。ロビン・フッド従姉妹の修道院で瀉血してもらったのですが、彼女は敵と通じていました。多量の血を抜かれた彼は力を失い、飛び出てきた刺客に抗えず致命傷を負ったのです。12世紀ローマ法王が瀉血治療を禁じるとその担い手は床屋に引き継がれ、あの赤と青の看板が生まれるきっかけとなりました。

「叫び」を描いたムンクの泣ける絵。姉の死期が近いことを示すカーテンの闇が…/つい人に話したくなる名画の雑学⑥