戦間期、革命が繰り広げられた東アジア。特に中国では、国民党共産党による「第1次国共合作」が成立し、軍閥打倒のために動き出します。2つの党の思惑が交錯し、のちに起こる「満州事変」も絡み、混迷をきわめていった当時の中国情勢について、『大人の教養 面白いほどわかる世界史』(KADOKAWA)の著者で河合塾講師の平尾雅規氏が解説します。

戦間期の東アジア

ここでは、戦間期の東アジアを見ていきます。まずは朝鮮半島に目を向けると、1919年に民族自決を期待して三・一独立運動が起こりました。

運動は鎮圧されたものの、日本側は従来の高圧的な武断政治を改め、言論・集会・結社への取り締まりを緩和する「文化政治」という同化政策に転換。日中戦争勃発を契機に皇民化政策が展開され、日本語の使用や創氏改名が推し進められます。

内地の人手不足が深刻化すると、朝鮮人労働者が移住・連行させられました。さらに太平洋戦争の末期には徴兵制が敷かれ、軍人や軍属として戦地に動員されました。

中国では、清朝は滅亡したものの、保守的な政治は依然として続きました。袁世凱が死去すると、激しい後継者争いが勃発。これらの軍閥は、列強の支援をうけて中国を支配していました。列強は中国の革命(=近代化)を恐れていますから、保守派の軍閥が幅を利かせている方がありがたいわけです。

第一次世界大戦中の中国では、知識人たちによる民衆の意識改革が進められました(新文化運動陳独秀が創刊した『新青年』の中で欧米の科学・合理思想を紹介。同時に、儒教道徳を払拭しようとしました。乱暴な言い方をすれば「支配者の言うことに無条件に従う」精神性を改めない限り革命など起こせない! ということです。

※その中核が文明革命

胡適は、文章を口語(話し言葉)で分かり易く表現する白話文学を推進しました。白話小説の代表格が魯迅で、中国人の奴隷根性・中華思想をこき下ろします。

大戦の終盤、中国は連合国側で参戦しました。北京政府の首班として軍閥のボスがパリ講和会議へ向かいます。政治意識が高まった大衆は会議において民族自決が検討されていることを知り、「やった、中国が植民地支配から解放されるぞ。特に二十一カ条要求は許せん!」と期待を寄せました。

※戦勝国となって国際的地位を高めようとした

でも……、皆さんも承知の通り民族自決は認められず。これを聞いた北京の学生や民衆は「列強は中国から出ていけ! その手先である軍閥もくたばれ!」と大爆発(五・四運動)。この報せをパリで聞いたボスは「ヤバイ。このまま列強にヘタれて帰国したら、民衆に何されるか分からん。抗議のポーズだけでもとっておかねば」と考え、ヴェルサイユ条約調印を拒否したのです。大衆が初めて政府を動かしたムーヴメントですね。

軍閥以外の各方面にも影響を与えた五・四運動

五・四運動は、軍閥だけではなく各方面にも影響を及ぼしました。革命を指導してきた孫文は、今までは実のところ大衆の力を軽んじていて、少数のエリート・富裕層こそが革命を担うと考えていたんですね。でも五・四運動のパワーを見て目からウロコ。大衆の力こそが革命の原動力だと考えを改め、1919年に立ち上げた中国国民党では大衆にも門戸を開きました

一方で1921年に中国共産党が成立します。ここで、共産主義と民族運動の関係について説明しましょう。共産主義は本来ナショナリズムを否定します労働者が愛国心を持つと、ライバル国の労働者と協力できず手強い資本家に歯が立たない、つまり世界革命を起こせないからです。

※ 以下共産党と明記

でもレーニンは、植民地におけるナショナリズムは認めました。愛国心に満ちた労働者が民族運動に身を投じて植民地支配から独立できれば、植民地から搾取していた「ボスキャラ」たる英仏の資本家にダメージを与え、英仏での共産主義革のアシストにつながると考えたのです。この時、植民地労働者と資本家が手を組むという現象も起こり得るわけで、中国共産党は一旦は資本家主導の国民党との提携にふみ切ったんですね。これが第1次国共合作

大衆の力を評価する孫文も合作に乗り気で、国民党共産党VS軍閥・列強という構図が見えてきました。しかし、軍閥と戦う準備の途上に孫文が病死。「革命いまだならず」という遺言は広く知られるところです。

孫文の後継となったのが黄埔軍官学校の校長を務め、国民革命軍総司令官となった蔣介石。国民政府が置かれた広州から、軍閥打倒のために国民革命軍が出撃して、北伐が始まりました。

国民革命軍は次々と軍閥を打ち破っていきます(共産党も奮闘!)が、国民党の中には共産党との連携をめぐって不協和音が……。実は蔣介石は筋金入りの反共で、共産党との協力に日ごろから不満を抱いていました。

この状況下、イギリスやアメリカは(今まではどちらかといえば軍閥寄りだったんですが)蔣介石に接近し「共産党を潰してくれれば、これからは国民党を支持する」と提案。中国最大の浙江財閥が蔣介石側に立ったこともあって、共産党を切り捨てる機は熟した、というわけです。1927年4月12日共産党員の一斉逮捕・虐殺(上海クーデタ)が断行され、国共合作は崩壊へ向かいました。

なぜ満州事変は起こったのか

翌28年、蔣介石は国民党だけで北伐を再開。ついに首都北京を占領し、軍閥抗争で勝ち残って実権を握っていた張作霖は自らの本拠地である奉天へ撤退していきました。ここで思わぬ事態が。奉天へ向かう張作霖が列車・橋脚ごと爆破されて殺害されてしまったんです。これは日本の関東軍の仕業でした。

満州に南満州鉄道(満鉄)などの権益を持つ日本は、同じ東北地方を勢力範囲とする張作霖を支援してきました。しかし「もはや、没落した張作霖など利用のしがいもない。奉天軍閥はこれで終わりだ。日本自身で東北地方を支配してしまえ」と考えた関東軍によって謀殺されてしまったんです。

北京に滞在していて難を逃れた息子の張学良はいち早く奉天軍閥を建て直し、父を殺した日本に立ち向かうため蔣介石の指揮下に入る決断をしました。東北地方を掌握する張学良が蔣介石に忠誠を誓ったことで北伐は完成、中国は(一応)統一されました。

以上の経緯が分かると、1931年満州事変が起こる経緯がスムーズに理解できます。東北地方を制圧する野望を挫かれてしまった関東軍は、満鉄を自ら爆破して張学良の仕業に仕立てあげ、これを口実に東北地方の主要都市を占領!1932年3月、日本は最後の皇帝溥儀をトップとする傀儡国家満州国を建国します。

世界恐慌をうけて日本も不況に苦しみ、海外市場を求めていた

これに対し、事件の不当性を訴えた中国側の要請で国際連盟からリットン調査団が派遣されました。調査の結果、柳条湖事件は関東軍の自作自演であるという結論に至り、調査団の報告を採択する決議に不満を持った日本は、1933年国際連盟を脱退しました。

ところで、上海クーデタ後の共産党はどうなっていたのでしょうか。クーデタの難を逃れた勢力が毛沢東を中心に、江西省の農村地帯に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立。ということは、実権を掌握する南京の蔣介石は、北の満州国(日本)と南の共産党という2つの敵と同時に対峙することになりましたね。さて、どうするか。

中国のなかで割れる意見

同じ中国人なんだから、国共で協力して日本と戦おうと考える人も多かったんですが、反共の蔣介石は「分裂状態の国内を統一するのが先決である」と考え、日本とは停戦して共産党への攻撃を優先させました※1国民党の総攻撃は苛烈をきわめ、紅軍※2は総崩れとなってたまらず瑞金を脱出。2年に及ぶ逃避行、長征の始まりです。国民党軍に見つからないように劣悪な道なき道を進み、多くの犠牲者を出しながらも延安に到達しました。

※1 この戦略を「案内攘外」と呼ぶ 

※2 中国共産党の軍隊

この長征の途上、モスクワにいる共産党員が「内戦を停止して、国共で団結して日本と戦おう」という趣旨の八・一宣言を発していました。完全無視した反共の蔣介石とは対照的に、宣言に心震えた男がいました。父親の仇をとり、故郷の満州を奪還したい張学良です。

そこで彼は、蔣介石が西安※1を訪れた際になんとボスである蔣介石を監禁(西安事件)! 共産党周恩来※2も説得にあたり、ついに蔣介石に内戦停止を認めさせました。このように国共和解に功のあった張学良ですが、ボスである蔣介石を捕らえた代償は大きく、数十年に及ぶ軟禁生活を強いられることになります。

※1 張学良の軍が駐留していた

※2 黄埔軍官学校時代、蒋介石の捕虜だった

1937年7月、日中が軍事衝突した盧溝橋事件から日中は全面戦争に突入しました。蔣介石は紅軍を八路軍として指揮下に入れ、第2次国共合作が成立。日本が国民政府がある南京に攻勢をかけると、蔣介石は長江をさか上るような形で南京→武漢→重慶と政府を移転させました。日本軍を内陸部に引きずり込み補給線を引き延ばしてやろうという魂胆です。

日本軍は南京などの沿岸部は押さえたものの、農村部ではゲリラ戦に苦しんで戦線は膠着。重慶を爆撃したり、蔣介石と対立していた汪兆銘を引き抜いて南京に傀儡政権をつくったりしましたが、戦局は好転せず、いたずらに戦線を拡大させただけでした。

平尾 雅規

河合塾

世界史科講師

(※写真はイメージです/PIXTA)