1955年にアメリカ・ミシシッピ州で実際に起き、後にキング牧師らが率いた公民権運動を加速させるきっかけとなった事件を元に、アメリカ社会と戦った母親の姿を描いた『ティル』(公開中)。現代社会にも密接につながっている重要なテーマが描かれた本作をより深く理解するため、知っておきたい5つのキーワードを紹介していこう。

【写真を見る】一人の黒人少年の死がアメリカ社会を動かした。これさえ読めばわかる『ティル』を読み解く5つのキーワード

■「エメット・ティル殺害事件」

本作で描かれているのは、1955年8月28日にアメリカのミシシッピ州マネーで起きた「エメット・ティル殺害事件」。シカゴから大叔父の暮らすこの町を訪れた当時14歳だった黒人少年エメット・ティルは、食料品店を営む白人女性に対して「口笛を吹いた」という理由から、その女性の身内によって拉致されてしまう。そして納屋に連れて行かれたティルは、目玉をえぐられ銃で頭を撃ち抜かれるといった激しいリンチを受けた末に殺害される。

川に投げ捨てられたティルの遺体は、数日経ってから発見される。すぐにロイ・ブライアントとJ.W.ミランが逮捕され殺人罪で起訴されるのだが、裁判の争点となったのは、川から引き上げられた遺体が本当にティルなのかどうかということだった。損傷が酷く、識別が困難であったためその証明をすることはできず、結局ブライアントとミランは無罪となる。

■「公開された遺体」

この事件はアメリカ南部に蔓延る人種問題をより浮き彫りにしたことはいうまでもない。エメットの母親であるメイミー・ティルは息子の遺体をシカゴに連れて帰ると、棺のふたを開いたままで葬儀を行うことを決める。激しく痛めつけられた息子の遺体を一般人とメディアに向けて公開することで、この陰惨な事件を世間に知らしめるためだ。葬儀には数万人が訪れ、ティルの遺体の写真は全米中に衝撃を与えた。

アメリカ社会の異常性を訴えかけたメイミーは後にこう語っている。「過去にこだわるわけではありません。しかし過去は、現在の私たちの在り方を形成し、そして私たちの未来へつなげていく道筋ともなります。過去を理解し、受け入れることができたからこそ、私はいまを完全に生きることができるのです。そして、息子が母親である私に残してくれた共感を一瞬たりとも忘れることはないのです」。

■「公民権運動」とボブ・ディランの「エメット・ティルの死」

アメリカの公民権運動を象徴する、マーティンルーサー・キング・ジュニア牧師の「I Have a Dream」の演説でも知られるワシントン大行進。そこで公民権アクティヴィストの講演者に先立つ前座として舞台に立ったボブ・ディランは、そこで新曲「エメット・ティルの死」を披露する。奇しくもその日は、エメット・ティル殺害事件からちょうど8年が過ぎた1963年8月28日のことであった。

自由と平等の国アメリカの偽善を赤裸々に描写した曲を白人青年が歌ったことに刺激を受けたサム・クックは、翌年に公民権運動の勝利を謳った「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」を発表。これを機に、政治的メッセージが入ったブラック・ミュージックとフォークソング、「カウンター・カルチャー」の時代が幕を開けることとなった。

■「BLACK LIVES MATTER」

メイミーの行動力やキング牧師らによって公民権運動は一気に加速することになるが、それでも根深い人種差別は終わることがなく、2012年の「トレイヴォン・マーティン射殺事件」や2020年の「ジョージ・フロイド殺害事件」など、いまなお世界中で痛ましい事件が頻発している。2013年ごろから始まった社会運動「BLACK LIVES MATTER(BLM)」が、「ジョージ・フロイド殺害事件」を契機にアメリカ国内のみならず全世界へと拡がっていったことは記憶に新しいだろう。

その動きのなかに、エメット・ティルの犠牲と母メイミーの存在は大きく影響を与えている。事件から67年が経過し、そしてメイミーの死去から19年が経った2022年3月、人種差別に基づくリンチを連邦法の憎悪犯罪(ヘイトクライム)とする「エメット・ティル反リンチ法」が成立。そしてエメットは、公民権運動の殉教者として、アラバマ州モンゴメリにある公民権運動記念碑にその名が刻まれている。

■事件から68年で迎える「初の劇映画化」

キング牧師をはじめ、公民権運動にかかわる人々の物語を描いた映画は数多くあるが、エメット・ティルの物語はこれまで一度も劇映画として描かれたことはなかった。事件発生から数十年の間に何度も映画化の話が持ち上がったとも言われているが、「性別と人種の根深い問題」や「集客に向いていない」といった理由から、何度も頓挫してきたと言われている。

本作の脚本家で製作プロデューサーを務めたキース・ボーシャンが初稿を完成させてから、こうして映画が完成するまでにかかった歳月は29年。プロデューサーを務めた名女優ウーピー・ゴールドバーグはこう語っている。「これまで、この物語を避けようとする強い力があったと思う。しかし近年、“語られるべきことは語るべき”という世の中になった」。いまも目まぐるしく動き続ける社会情勢。まちがいなくその源流となった1人の母親の愛と正義の物語を、この映画を通して多くの人に知ってもらいたい。

文/久保田 和馬

68年前に起きた実在の事件を描く『ティル』/[c]2022 Orion Releasing LLC. All rights reserved.