"国際協調" の裏で繰り広げられた米国インテリジェンス活動の実態とは?
H・O・ヤードレー『ブラック・チェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』

書評家・作家・専門家が話題の一冊を解説します!

評者:(作家・元外務省主任分析官)

 本書『ブラック・チェンバー』の著者ハーバート・オズボーン・ヤードレー(Herbert Osborn Yardley、一八八九年四月十三日生まれ、一九五八年八月七日死去、享年六十九)は、インテリジェンスの世界では誰でも知っている人だ。
 インテリジェンスとは、国家が生き残るために必要な情報を合法、非合法双方の手法を用いて入手し、分析する仕事だ。特に戦時においてはインテリジェンスが死活的に重要になる。インテリジェンスにもいくつか種類がある。ヒュミント(HUMINT:Human Intelligence)は、人間を通じた情報収集活動だ。敵国の内部にスパイを潜入させ秘密情報を入手する際にとられるのがヒュミントだ。非合法なスパイ活動だけがヒュミントではない。ウクライナ戦争が進行中の二〇二三年秋時点の状況では、内閣情報調査室の職員がウクライナ情勢に通暁したジャーナリストや学者と意見交換することも立派なヒュミント活動だ。インテリジェンスには、秘密情報を用いず、新聞、テレビ、雑誌、ウエブサイト上に公開された情報を専ら用いるオシント(OSINTOpen Source Intelligence)という技法もある。政治や経済に関しては(ただし軍事情報は除く)、秘密情報の九十五%程度は公開情報を分析することによって得られるという。もっとも、膨大な公開情報の海から適切な情報を選び出すことは、秘密情報を扱った人以外にはなかなかできない。だからヒュミントで業績を上げた人がオシントに転ずるとよい成果を出すことがしばしばある。インテリジェンスにおいて、重要な役割を果たすのが盗聴、暗号解読などのシギント(SIGINT:Signal Intelligence)だ。世界中の要人の電話(場合によっては事務所や自宅)も常にどこかの国のインテリジェンス機関によって盗聴されているというのが二十一世紀の常識だ。
 各国のインテリジェンス機関には得意な分野がある。イスラエルイギリスロシアは、ヒュミントが得意だ。この三国の中でロシアイギリスは、情報操作(ディスインフォメーション)も得意だ。対して、アメリカはシギントを得意とする。アメリカのシギントの基礎を作った一人がヤードレーだ。
 ヤードレーは一九〇七年にシカゴ大学に入学するが、中退した。第一次世界大戦が勃発する二年前に国家公務員試験に合格し、国務省で勤務する。第一次世界大戦中は、シギントを担当する陸軍諜報部第八課(MI8)で勤務する。戦後、ヤードレーは、ニューヨークに「ブラック・チェンバー」という暗号解読機関を創設する。資金は国務省と陸軍省から出ていたので、事実上は国家のインテリジェンス機関だった。この機関は日本の暗号解読で大きな業績をあげた。特に一九二一〜二二年に行われたワシントン軍縮会議で、「ブラック・チェンバー」が解読した暗号をアメリカ政府は最大限に活用し、交渉で日本に対して有利な立場を取ることができた。一九三一年に公刊された本書の内容は日本でも大きく報道され、同年中に大阪毎日新聞社から『ブラック・チェンバ:米国はいかにして外交秘電を盗んだか?』との標題で邦訳が刊行され、政治問題になった。しかし、日本の陸海軍も外務省シギント能力の向上に力を入れず、これが太平洋戦争における日本の情報戦敗北につながった。
 ヤードレーが天才肌の人物であったことは間違いない。この種の人物にありがちな短所と長所を併せ持っていた。
 短所は、自己顕示欲と復讐心が強いことだ。ヤードレーは自らの仕事がアメリカ政府に評価されると確信し、盗聴と暗号解読の実態についてスティムソン国務長官に報告書を提出した。ヤードレーの思惑に反して、この報告書は長官の逆鱗に触れた(優れたインテリジェンス・オフィサーが有力政治家の琴線に触れるつもりで逆鱗に触れてしまうことは現在もときどきある。恐らく琴線と逆鱗が隣に位置しているからだ)。この腹いせでヤードレーは本書を書いた。

 この著書は、私がアメリカ政府に創設し、そして育ててきたこの秘密機関の内容を冷静に、そしてそのすべてを暴露するのが目的である。このアメリカ政府の秘密機関は、その全盛時には百六十五名の男女職員が働いていた。私はこの「機密室」を創設し、その神秘的な活動の采配を振ってきたが、十二年後、新国務長官〔訳者注、ヘンリー・L・スティムソン〕の命令によって「機密室」のドアはある日突然、閉鎖されてしまった。

 ヤードレーの長所は、部下の人材を育成する能力に長けていたことだ。日本語の暗号解読にしても、常識的に思い付く日本語能力のある人に暗号解読を教えるという手法ではなく、暗号解読の能力の高い人物に日本語を習得させるという意外な方法をとることにした。そしてヤードレーは、「ブラック・チェンバー」に勤務するあるロシア暗号解読専門家に目を付けた。

 そこで、私は彼に言った。
「僕の考えは間違っているかもしれんがね、とにかく、この日本の暗号は歴史になるような大仕事ができるような気がするんだ。そこで僕は立派にそれを読みこなす日本語学者が必要だと考えている。僕はいままで誰かいないものかとアメリカ中を物色したんだが、一人も見あたらない。しかし、とにもかくにも、なんとかして一人だけでも見つけ出すつもりだ。ところが暗号解読者というものが、どんなものであるかっていうことは君もご承知の通りだ。翻訳者の頭が暗号解読の働きを発揮するということは、万に一つの場合だからね。そこで僕の意見ではだね、日本語学者に暗号解読法を覚えさせるよりも、むしろ暗号解読者に日本語を習わせる方が容易じゃないかと思うんだ。
 僕はここの課員の誰かに日本語を学習する機会を与えるつもりでいる。一年か、もし必要なら二年くらい暇をやって、日本語を研究させるんだ。費用の点はワシントン政府から特別の予算を出してもらうことにする。そこで、この仕事のために僕が選ぶ人間は、以後はなんらの束縛を受けることなく、自由に日本語の学習をすればいい。ただ月に一回だけ僕に報告をして、自分の研究が進歩したことをはっきりさせてくれれば、それでいいんだ」
 私は彼の小さな両眼が、希望に燃えているのを見て取った。私は今までに、彼ほどいろいろな言語の不思議な複雑さに魅了される男を見たことがない。
「どうだね、ひとつやってみたいという気はないかね?」
 私は水を向けた。
「これ以上面白いことは、私には想像できませんね」
 彼は躊躇なく答えた。
「よろしい、じゃあ君を選抜して、ここの日本語専門家になってもらおう。ロシアの暗号の方は誰か他の者に引き渡すことにしよう。そして当分の間、机を僕の部屋に運び込んで、この日本暗号の解読を二人で片づけてしまおう。その間に、君が師事すべき日本語学者が見つかるか見つからないか、ひとつ探してみることにしよう」

 これが見事に当たった。この日本暗号解読の専門家に日本の政府も陸海軍も苦しめられることになる。
 インテリジェンスに関しては、一定のレベルの高等教育を受けた人ならば誰でも習得できる技術学(テクノロジー)であると考える人と、天賦の才能が必要となる芸術(アート)と考える人がいる。ヤードレーは芸術派だ。

 正確な暗号解読者とはどんなものか、それは定義しにくい。あるタイプの心の所有者だ、と言うほかはない。その仕事は今までに経験したことのない、全く未知の世界が相手である。練達の士になろうとすれば、長年の経験を要するのみならず、多くの独創性と想像力を必要とする。私たちはこれを「秘語頭脳」と呼んでいる。これ以上の説明は私にはできない。将来有望な暗号解読者になり得るかどうかを判定する知力試験などというものはないからである。最も有望な研究者といえども、いざ全責任を負わさせると必ず肝心の暗号解読には失敗して、ただ事務的な仕事しかできないというケースもある。
 私は後年、イギリス人、フランス人、インド人と共に研究する絶好の機会を持ったが、彼等もまた私と同様の経験をもっていたのを知った。英、仏、伊、米の連合暗号局では、この「科学」に数千の男女がその全知全能を打ち込んでいたが、この人々の中で、我々のいわゆる「秘語頭脳」の所有者はわずかに十二人いるかいないかだった。

 解説者(佐藤)もインテリジェンスは究極的に芸術と考えている。これは暗号解読のようなシギントだけでなく、ヒュミントやオシントにも言えることだ。新聞を読んでその行間から秘密を抽出することができるのは、天賦の才がある人に限られる。もっとも現在のインテリジェンス機関は、公務員によって形成されている。そのためインテリジェンス教育も建て前は公務員に採用される能力のある人ならば習得できる技術学ということで進められる。しかし難しい実務は天賦の才のある数人の高度専門家によって進められることになる。
 本書に記されたうち、秘密インクによる通信文の作成というような技法は、もはや日常的には用いられていない(もっとも特殊な状況に置かれている北朝鮮は今でも用いている)。ただし、現在も鋭意活用されている以下のような技法もある。

 私がとても失望していたある日、急に一つの案が浮かんだ。これなら大丈夫だろうと思った。私はチャーチル将軍に、ワシントンの日本の駐在武官がわが陸軍諜報部と日本の陸軍省との間の情報の交換に関係しているかどうかを尋ねた。
 将軍が「関係している」と私に告げたとき、私は言った。一通の通信を海底電線で日本の政府へ転電してくれるよう、その日本武官に渡してくれないかと頼んだのだ。
 私は、もし我々がその電報の内容を事前に知っていれば、暗号群と普通電報の原文とを照らし合わせて、いくつかの言葉が解決できるだろうということを将軍に説明した。

 スパイ活動によって公電(外務省や武官府[陸海軍の外国での駐在機関]が公務で用いる電報)を入手し、その電報が発信された時間の通信記録(シグナル)と付き合わせて、暗号を解読することは現在もよく行われている。日本外務省は毎年年末に三十年以上経過した外交文書の一部を公開する。このとき公開される公電は、発信時間と受信時間が必ず黒塗りにされている。通信の時間を特定することで、暗号が解読される危険を懸念しているからだ。

 二〇二三年八月三十一日

作品紹介

ブラック・チェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか
著者:  H・O・ヤードレー 訳者:平塚柾緒
発売日:2023年12月08日

米国はいかに外交暗号を盗んだか? 国際政治の内幕を描いた名著、復刊!
佐藤優氏 「情報分析の一級資料、待望の復刊。」

ワシントン海軍軍縮会議で参加国の暗号電報5000通以上が完全に解読されていた――1931年に刊行された『ブラック・チェンバー』は、米英日はじめ世界中に衝撃をもたらし空前のベストセラーとなる。米国がひそかに行っていた諜報活動の実態を、暗号解読室「ブラック・チェンバー」創設者、H・O・ヤードレー自身が暴露したのだ。ベルサイユ平和会議、ロシア革命、ワシントン海軍軍縮会議――世界が “国際協調” へ向かう歴史の裏で繰り広げられていた米国インテリジェンス活動の実態とは? 
日本語暗号突破までの一部始終を総解説、「日米諜報戦」の原点を描くとともに、ベルサイユ平和会議やロシア革命の裏で展開した国際 “諜報戦”の現場を描く秘録、待望の復刊!
解説佐藤優

ワシントン会議で戦艦保有率対米7割からの譲歩を指示した日本外務省暗号電報は完全に解読されていた
日本軍シベリア撤兵情報もつつぬけ
◆日本語暗号の解読が最も難しかった
ドイツの諜報網を破るための「隠しインク」の焙り出し
◆米国内の郵便検閲で引っかかった暗号私信は、ほとんどが「ラブレター

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本記事は「カドブン」から転載しております

情報分析の一級資料、待望の復刊。――H・O・ヤードレー『ブラック・チェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』新書巻末解説【解説:佐藤優】