伝統的な家族観」という言葉を耳にすることがある。それは多くの場合、異性間での一夫一婦による結婚という形式を指している。

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そしてその言葉は、変わろうとする社会の兆しや、日本ではマイノリティである価値観や性的志向を持つ人の声を塞ごうとする時にも、良いように使われてきた。

日本社会ではむしろ、この「伝統的な家族観」から逸脱する人間や行為が極端に忌避される場面も見られる。

でも、本当にそれは日本において「伝統的」なのだろうか? そしてどのような経緯から、そうした価値観は形成されてきたのか? 改めて立ち止まって考えてみたい。

本稿は、既婚者専用のマッチングアプリ「Cuddle」のプロモーション記事である。



既婚者専用のマッチングアプリって何?」と疑問に思う読者も多いはずだ。

そのコンセプトや実態についても記事の最後にうかがっているが、記事の主旨としては、同志社大学社会学部メディア学科教授の佐伯順子さんに、日本における結婚観・恋愛観の歴史的な変遷を皮切りに、「既婚者同士で交友関係をつくる」という結婚観・恋愛観についてお話をうかがっている。

そして、聞き手であり記事の執筆者である中村香住さんは、ジェンダー・セクシュアリティの社会学を専門とする研究者である。

中村香住さんは、日本における一夫一婦制や恋愛結婚が比較的新しい現象であることや、年長男性に権力が集中する家父長制的な側面が今も残存している点をはじめとした結婚制度の問題点に着目。

中村香住さんには、本インタビューを通してそうした点を多くの方に知ってほしいという思いからインタビュアーを引き受けていただいた。

また、「ポリアモリー」や「オープンマリッジ」といった、日本においては比較的最近知られるようになってきた関係性構築のスタイルについても、佐伯さんのお考えをお聞きしつつ、「Cuddle」チームの見解についても尋ねた。

取材・文:中村香住 リード文・編集:新見直



「恋愛」という概念がなかった江戸時代以前、「結婚」と「色事」は別物だった

──最初に、江戸時代以前の恋愛観・結婚観についてお聞きしたいと思います。江戸時代には、「色好み」「色事」といった概念が存在したと聞いたことがありますが、これらは現在の「性欲」や「恋愛」とどのように異なるのでしょうか?

佐伯順子 紫式部源氏物語』の「色好み」や西鶴『好色一代男』の「色事」を見ていてもそうですが、これは恋心、「人に惚れる」という意味での恋ですね。

明治以降の「恋愛」では、いわゆるプラトニック・ラブ(肉体に依存しない精神的な結びつき)を理想化します。魂(精神)と肉体は違っていて、肉体は非常にレベルの低いものだが、魂とか精神の世界は高尚で神にも近いのだ、と。だからプラトニック・ラブから恋愛は始まるべきだと明治時代の知識人は考えていて、その点を強く強調しました。

佐伯順子さんは、著書に『「色」と「愛」の比較文化史』(岩波書店)『一葉語録』(岩波現代文庫)などがあり、日本の文学や文化史、ポップカルチャーから、恋愛観・結婚観の歴史的な変遷やそこで見られるジェンダー観を研究している



佐伯順子 一方、「恋愛」という概念が存在しなかった江戸時代以前の「色好み」「色事」という意味での恋は、肉体関係と分かれていません。色事や好色の世界では、惚れたら肉体関係は当然あるものという感覚が主流でした。肉体関係が野蛮だとか汚らわしいという感覚もゼロではなかったですけども、市民感覚としてはあまりなかったと言えます。

仏教の中では「肉欲は罪深いものだ」という禁欲的な教えはもちろんあったのですが、それを杓子定規に信じている江戸時代の市民はあまりいませんでした。日本では、仏教寺院自体で、かわいい少年と肉体関係を持ち、それを「神仏との融合だ」「あの世に行く快楽だ」なんて表現した物語も書かれていたぐらいなので。

そういう考え方が主流だったので、色事というのは必然的に、肉体関係を持ちつつ一晩一緒に過ごして、関係が成立するということでした。明治以降のプラトニック・ラブの強調は、江戸時代以前の色事がこのような特徴を持っていたので、それに対する反動だと思うんですけどね。

中村香住さんは、女性声優とDisneyとテーマパークと百合が好きな社会学研究者。慶應義塾大学等非常勤講師もつとめる。レズビアンでクワロマンティック(人に抱く好意が恋愛感情かそうではないかを判断できない/しない)



──なるほど。「色好み」や「色事」においては、今で言うロマンティックな感情がセクシュアルな関係に直接的に結びついていたのですね。それでは、江戸時代以前の男性にとって、「結婚」とはどのような意味を持つものだったのでしょうか? それと「色好み」や「色事」はどのように両立していたのでしょうか。

佐伯順子 江戸時代以前の結婚は、武家の場合だったら家系を存続させる、商家だったらそのお店を存続させるという感じで、「家」を中心に回っているので、「惚れた腫れた」といった恋心と結婚は結びつかないんですよね。

お見合いすらなく、「あそこの家とここの家は家格があっているから」という感じで結婚させられてしまうんですよね。子供をつくるための結婚で、好きな人と結婚するわけじゃないから、惚れる人は別にできちゃう。ですので、明治以降の一夫一婦制の倫理観とは完全に相反しますが、当時の多くの男性にとって妻は妻であって恋人とは違うという感覚になってしまう。妻との関係は惚れたはれたと別次元と考えられてしまう。

逆に女性の場合は、特に武家であれば貞操観が重視されるので、極めて抑圧的でした

──結婚は制度維持のための仕組みで、情愛や色事はその仕組みの外側にあったと。

佐伯順子 はい、ただし、地域社会の場合はまた違っていて、上方落語で『いいえ』という演目があります。役者さんが芸の修行として女の格好、いわゆる女方として旅をして、途中立ち寄った民家に一晩泊めてもらう。女だと思って娘と妻の部屋に一緒に泊めるんだけど、実は男なので、娘とも妻とも関係してしまう。そして、夫は夫でその役者のことを女だと思って関係する。翌日、家族3人で女方さんを見送る時に、みんな薄々気づいて「昨日あの子となんかあったんじゃない?」と互いに聞き合って、3人とも「いいえ」とはぐらかすんです。でも、それで丸く収まる。誰もお互いのことを強く糾弾しない。

赤松啓介さんの『村落共同体と性的規範―夜這い概論』(言叢社)などには、実際に落語に似た地域社会の女性と旅人との関係などが書いてあり、実は江戸時代以前の地域社会の女性の方が、近代的な概念を当てはめると、性的には自由だったと言えると思います。

──それが、明治以降は徐々に変化していったということですね。

佐伯順子 そうですね。例えば与謝野晶子さんの有名な『みだれ髪』を読むと彼女は奔放な女性のように見えますが、『みだれ髪』の晶子像は本当に一面でしかなく、むしろそれを彼女はのちに否定しています。

与謝野晶子『みだれ髪』



なぜか研究者はあまり注目しないのですが、与謝野晶子は女性解放についての評論をたくさん書いていて、そっちの方が実は面白いです。彼女が書いた女性解放論の中では、「昨今の村の女性の風俗を見ていると、どんどん清くなっていくことがわかります」という内容が書かれています。

清くなるということは、処女性を重視するという意味なのですが、こうした性的潔癖性の賛美は、北村透谷の恋愛論※などで喧伝されました。しかし、明治前半の地域社会の女性たちの間ではそうした性道徳が希薄で、10代くらいで夜這いなど、地域社会の性的習慣のなかで、性的に成熟してゆくことに対して、咎められることもなかった

ところが、明治の近代以降になって「清い恋愛」が道徳的だという思想がだんだん普及してきたために、村の娘たちは処女性を大事にするようになり、文明の「進化」にふさわしい喜ばしい変化であると与謝野晶子は書いています。

※「近代日本と恋愛」のめぐる研究において、その原点として位置付けられるのが、評論家・詩人の北村透谷だった。彼は「厭世詩家と女性」という文章の中で、「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」と主張。今で言う恋愛至上主義の立場を打ち出した



「恋愛」誕生秘話──なぜ「恋」と「愛」が日本で結びついたのか?

──では改めて、明治時代になって「恋愛」という言葉が誕生したと言われていると思います。この言葉はどのようにして生まれたのでしょうか?

佐伯順子 明治18〜19年に、坪内逍遥『当世書生気質』で、“Love”の翻訳として「愛」や「色」や「情け」といった言葉が試験的にあてはめられてゆく過程で、「よっぽど君をラブしている」というフレーズが出てきます。おそらく当時、“Love”に相当する日本語が坪内逍遥としてもうまく見つからなかったので、「ラブしている」という表現を使いつつ、それに「愛」という漢字を当てました。それが一番初期の段階です。

明治20年代になると、さきほども触れた北村透谷の有名な「恋愛」論が女性雑誌や文学作品を通じて広まっていきました。その頃にはもう「恋愛」という言葉が、特に文学者の間では定着し始めていました。

日本人が抱きがちな西洋への憧れというものと一体化して、英語の“Love”というもともと西洋の言葉だったものを日本に無理やり当てはめるために、翻訳語として「恋愛」が定着したという経緯があります

「恋愛観」や「結婚制度」に縛られすぎてない? 既婚者マッチングアプリ「カドル」の挑戦



──ただ、「恋」と「愛」は日本語においてかなり大きく異なる概念だと思うんですよね。その2つの漢字をくっつけて「恋愛」という言葉をつくろうとした理由は何なのでしょうか?

佐伯順子 そうなんですよ。私もずっとそこが気になっていて。愛と恋って似て非なるものなんですよね。

愛は「アガペー」、つまり相手を受け入れて、相手のために優しさとか思いやりとかをお互いに交換していくことです。むしろ愛の中には、性愛が含まれない場合がある。家族愛が代表的な例ですよね。愛というのは、性的な関係を条件としなくても成立する。

それに対して恋の場合は、憧れとか「惚れたはれた」のやりとりです。それは正直なところ、相手に対して優しさや思いやりを持っていなくても成り立つ。

つまり、英語の“Love”は性愛を伴う愛と伴わない愛を両方含んでいて、シチュエーションごとに使い分けている。“I love you”と恋人に言った時は「恋愛」だし、神の“Love”と言うときは「アガペー」。

日本の場合は「ラブ」って外来語だからどう訳しましょうとなった時に、家族に対する愛は「家族愛」、性愛を伴う場合は「恋愛」といったように表記を分ける必要が生じたんだと思いますね。

今も蔓延する「伝統的な家族観」という誤解  

──近年、夫婦別姓同性婚の法制化の議論の際に、「保守」とされる議員や論客から、しばしば「伝統的な家族観を壊しかねない」といった言葉を聞きます。ただ、お話いただいてきた通り、そもそも日本において現在の一夫一婦制や恋愛結婚といった結婚観が形づくられたのも、明治時代のことですよね。

佐伯順子 はい。政治家なども含めて少なからぬ現代人が「伝統的」だと思っている家族観や結婚観は、実は明治以降につくられたもので、日本の長い歴史の中では極めて新しい現象です

まず一夫一婦というのは、明治以降に文明開化の動きとともに、当時の知識人と言われる人たちが、欧米の結婚にならって「一夫一婦が道徳的であり、男一対女複数という形が男女不平等なのは明らかだ」という主張を始めました。明治時代には男女平等という価値観も新しく出てきたので、それと相まって、一夫一婦を奨励するという動きが出てきたわけです。

さきほど述べた通り、江戸時代以前には、男の人が遊郭に通ったり、妻以外の女性と関わったりすることに対してはあまり倫理的に問題にされなかったにもかかわらず、女性、特に武士の妻は、夫に対する貞操を厳格に守るという、性別によって異なるダブルスタンダードの倫理観がありました

それが表向きには改革されたのが、明治維新以降ということになります。

高度経済成長期の夫婦像は、本当に“理想的”だったのか?
──明治時代男女平等の動きとともに「一夫一婦制」が成立したわけですが、明治時代以降の恋愛観・結婚観についてはどのように捉えていらっしゃいますか。私自身は、表向きには男女平等が実現されたということになっていますが、江戸時代に色濃く存在した家父長制的な結婚観は、明治時代以降も形を変えて残存しているようにも感じます。

佐伯順子 山田太一さんが脚本を書いた『岸辺のアルバム』という昭和に人気を博したドラマが、まさに家父長制的な家族関係が残っている高度経済成長期の結婚の典型だなと思っています。

そこで描かれた夫婦は、夫は収入が安定しているエリートで、お子さんが2人いらして、外から見ると理想の家族像です。しかし、夫は忙しくてあまりお子さんのことを顧みないし、お子さんも大きくなったら親離れして自分で出かけていって、妻は一人取り残されてしまう。

画像は「岸辺のアルバム|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS」より



他にも昭和のホームドラマ、特に『寺内貫太郎一家』は下町のほのぼの家族という感じで、高い視聴率だったし名作とされていますが、寺内貫太郎は妻に「おい!」みたいな感じで怒鳴り散らしていて。それが、ぶっきらほうで一見乱暴だけど、根はやさしい理想の夫、父親像、夫婦像とみなされていたんですね。『関白宣言』という曲も流行ったくらいですので、当時はこの理想の男性像に疑問を抱く感覚は少なかった。

──いわゆる「亭主関白」的な価値観ですよね。

佐伯順子 このドラマを授業の教材として見せたら、フランスから来た留学生が「夫が妻にあんな態度を取ったら、フランスでは大問題だ」と感想を言ってたんですよ。それはそうですよね。私自身も若いころはそんなものだと見てしまっていましたが、今思えば、こういう感覚が、グローバルには正しいですよね。

この頃に理想化された家族愛とか夫婦愛は、実はすごく男性中心的です。その代わり、男の人は会社で上司や同僚にいじめられたり、深夜まで働いて朝早く出勤したりと、労働環境において苦労していました。その反動もあってか、家の中でストレスを発散しがちになってしまう。

同時に、外で仕事をする女性に対して抑圧が強くなってきて、「女性は生計労働するな」という暗黙の価値観が出てくるようになります。けれど、夫の収入で生活することになると、夫が言葉通り「主人」になってしまい、妻は逆らえない。

昭和期の家族は、日本が経済成長しているから一見幸せだと思われがちなのですが、非常に家父長制的な要素の強い家族でした。男性は男性で長時間労働して苦労するし、女性は女性で家の中で一人ぼっちになってしまう、非常にアンバランスな状況があったと思います。

だから、今の若い女性や男性がそうした家族像を目にして嫌だなと感じて、だんだん結婚しなくなっているんじゃないかというのが私の見方です。



ポリアモリー」や「オープンマリッジ」は、日本人にはむしろ馴染みのある関係だった?

──近年、日本でも、関係者全員の合意を得たうえで、複数の人と恋愛関係を結ぶ恋愛スタイルである「ポリアモリー」や、相互の合意の下に夫婦間以外の恋愛的・性的な関係が開かれている結婚の形「オープンマリッジ」といったライフスタイルが知られてきており、少しずつコミュニティも形成されてきていると思います。

今回、記事のテーマでもあるマッチングアプリ「Cuddle」における既婚男性と既婚女性の出会いも、「一夫一婦制としての結婚制度の中のみで人間関係を閉じる」ことに対するアンチテーゼという意味では、そうした価値観に連続する側面があると思います。佐伯さんは、こうした事象についてどのように考えていらっしゃいますか。現代の規範的な恋愛観・結婚観を攪乱する可能性はあるでしょうか?

佐伯順子 これまでお話したような、家父長制的な結婚のあり方から逃れたいけど逃れられないという人たちがいるとすると、それに対して、あくまでも当事者・関係者の合意を得た上で、離婚するほど配偶者を嫌っているわけではないが、結婚後には配偶者との関係にコミュニケーションが閉じる傾向もあって、開かれたコミュニケーション、人間関係の可能性を模索するという選択肢が出てきたのかと思います。

私自身はあまり多くの人と一度に関わるのは得意ではないので、あくまでも客観的に社会現象としてみた見解ですが、男女関係というよりも、人間関係の多様性の模索として、そういうものが求められてきているのかなと

そして、このことは必ずしも現代特有の現象ではなく、歴史的には、配偶者間の合意を得たうえで、婚姻関係をこえて親密な関係をもつ点では、日本の『万葉集』の時代の「嬥歌(かがい)」が近いのかなという気がします。

──「嬥歌」ですか。

佐伯順子  「嬥歌」は、「人妻に  我も交らむ  我が妻に  人も言問へ  この山を  うしはく神の  昔より  禁めぬわざぞ」と『万葉集』にもうたわれているように、特定の祭礼的な時にだけ、一種の無礼講のような関係があったことが示唆されているのですが、近代的な概念でいうと、一種の一時的な性的「自由」のようなものをかいま見ることができます

前述の落語の『いいえ』が語られるような時代や、明治以降になっても、そうした一種の性的「自由」さが、森鴎外『ヴィタ・セクスアリス』でもふれられているように、地域社会において盆踊りの機会などに残っていたようですが、明治以降に禁欲的な性道徳が日本で強調され、それが特に女性に対して縛りになってしまって。戦後の日本でも、女子高生の男女交際は、性的関係がなくても、会話するだけで不道徳であるという映画『青い山脈』に描かれるような矛盾した状況がありました。

それに対して潜在的に違和感を抱いてきた女性もあると覆いますので、恋愛ということではなくても、既婚者同士でしかわかちあえない子育てなどの悩みを、別の視点から相談しあい、開かれた友人関係をもって人間関係を豊かにしたいという希望が出てきても、不思議ではないのかなと思います。

「嬥歌」に関しては、しょっちゅうやってしまうと社会生活の秩序の維持が難しくなってしまうこともあって、祭礼の時とか非日常的な機会に限定的にという点が重要であったと思います。

ただ、今の日本社会においては、村祭りや地域の集まりは衰退していってしまっているので、むしろ社会的な機会として、夫婦間のコミュニケーションに加えて、開かれた人間関係を公明正大にもつということは、お互いにコミュニケーションがうまくいかなくなって不満を抱えながら配偶者に隠れて交際したり、「旦那デスノート」などに不満をつづって我慢したりするよりも、多様な人間関係のなかで幸せに生きられるのかなという気がします

「恋愛観」や「結婚制度」に縛られすぎてない? 既婚者マッチングアプリ「カドル」の挑戦2



──そうですね。私としては、「嬥歌」は祭礼の時などに複数人で「その場を楽しむ」ものというイメージが強く、ポリアモリーやオープンマリッジのように丁寧な合意形成プロセスを経て、継続的な関係性を形作る営みとはやや性質が異なるのではないかと感じますが、夫婦間の外に関係を持つという意味では共通点もあるのかもしれません。

では最後に改めて、現代において「既婚者同士で交友関係をつくる」ことの必要性と、それに関して既婚者マッチングアプリ「Cuddle」はどのような役割を持ち得ると思われますか?

佐伯順子 基本的に職場は男性と女性が一緒に働いていますから、一生何らかの形で仕事をしている人生であれば、必ずしもサービスを利用しなくても、仕事上の相談などで、異性同性を問わず、恋愛関係とは別の次元で、家庭の日常生活以外にも、開かれたコミュニケーションが自然にできる環境にあると思います。

ですが日本の場合、専業主婦の方は長期的には減っていますが皆無ではないですし、一度家庭に入ると、友達同士での女子会はあっても、それ以外の外部での人間関係をもつ機会は減ってしまうこともあると思います。そう考えると、自然な形で女性とも男性とも話す機会が必ずしも多くの方に開かれている状況ではない。

そうした時に、既婚者同士がお互い了解の上で、既婚者でしかわからない悩みを相談しあったり、友達になったりして、配偶者以外の視点から客観的な意見をきいて視野を広げることは、人生の選択肢として、人間関係の多様性の一つとしてあるのかなと思います。

一度結んだ婚姻関係を尊重することは、せっかく結婚するわけですから、当事者の幸福感が持続するのであれば大事だと思うのですが、社会的な対面を保つためだけに無理やり形式的な夫婦関係を維持するとなると、へたをすれば「結婚は人生の墓場」という言い回しどおりに、人生の多くの時間を不本意な人間関係のなかで悩みながらすごすことになり、しんどいと思います。

ですので、今ある人間関係を全否定するわけではないが、閉そく性があるという場合には、それに対して開かれたコミュニケーションを提供することで、人生をより豊かに生きる機会を提供するという意味では、可能性のひとつかもしれませんね。あくまでも当事者が納得してトラブルを回避するのが前提ですが。

逆に中村さんは、若い世代としてどう思われますか?

──うーん、そもそも私は同性愛者なので異性と結婚することは多分ないんですが。

一般論として、結婚をしている際に他の人と関係性を築くということは、佐伯さんもお話されていたように、配偶者の合意があった上では制限されるべきではないとは思います。その上で、他者との関係性に関する細かい部分、例えば「この人と一対一で会うのはいいけど、やっぱりキスはしないでほしいな」とか、むしろ「私たちは性的な関係をお互い別の人と持つようにしましょう」といった細部に関しては、合意の形成を積み重ねる必要があると思います。

その合意の擦り合わせは、実際にやるのはなかなか大変な苦労があるだろうと思いますが、一方で丁寧に合意形成をするために互いに向き合いきちんと話をするプロセスは、夫婦関係にとっても価値があることだと思います。

オープンマリッジ的な使い方をするユーザーは増えている、だけど──「Cuddle」担当者の胸中

──ここまでは、日本の色恋と結婚制度が、どのように変遷してきたかの歴史を踏まえつつ、この日本社会で現在「模範的」と考えられている関係性とは異なるあり方の可能性についてもうかがってきました。最後に、既婚者マッチングアプリ「Cuddle」について、コンセプトを担当された渡辺祐介さんにいくつかおうかがいさせてください。まず「Cuddle」の基本的なコンセプトはどういったものでしょうか?

渡辺祐介 基本的なコンセプトとしては、「既婚者」という共通のつながりの中で交友関係をつくることです。ただし、恋愛や「一線を超える」ことはやはり社会通念上OKとはしていません。規約上にも、恋愛や「一線を超える」ことを推奨するサービスではないこと、あくまでも交友関係を広げるためのサービスですと明記しており、ユーザーにはそれを了承した上で使っていただいています。

ご利用されている方は、結婚生活がとても辛く、他の交友関係に逃げ出したいという方は意外と少ないです。どちらかというと、結婚生活としてはすでに充実しているけれど、結婚後はどうしても同じコミュニティ、例えば仕事場や子どもの学校など似たような環境にいる人としか会話をする機会がなく、新しい出会いが少ない。そこで、それ以外のコミュニティの人、かつ「既婚者」や(人によっては)「子どもがいる」という点によって共通の話題や価値観が出てくるので、そうした共通項を持っている人との出会いを求めている方が非常に多いです。

──そもそも「Cuddle」はなぜ異性との出会いにフォーカスをされているのでしょうか? 既婚者に新しい出会いを、ということであれば、サービスの機能として、異性に限定しないマッチングもあるとよりユーザー層が広がりそうだとは思いました。

渡辺祐介 元々のコンセプトとして、同性とのマッチング機能も想定していました。ただ、まず入口としては、世の中の(異性愛で既婚者のうちの)多くの人たちが求めるものという観点から、異性とのマッチング機能から始めました。やはりマッチング対象を異性だけにしていることによって社会的に「不倫を斡旋しているサービス」という目で見られがちな部分もありますが。

実は、同性マッチング機能はすでに来年(時期は未定)実装する予定が決まっています。例えば、育児への参加の仕方に悩む男性同士がつながるといったことも一定のニーズがあるのかなと考えています。

──そうだったのですね。「Cuddle」は不倫を推奨するサービスではないとのことですが、逆に「オープンマリッジ」のような、夫婦間で合意を形成した上で互いに別のパートナーをつくることに関しては、どのように考えていますか?

渡辺祐介 まだまだ少ないですが、実際にご利用いただいている方々でも、オープンマリッジを公言して配偶者の同意のもとでこのサービスを使っている方は一定数いて、徐々に増えてきている印象があります

ただ、先ほどのお話の中でもあったと思うんですが、運営側としてはもちろん配偶者の同意を得てほしいですし、それを推奨はしているものの、(夫婦間以外の異性との関係性について)配偶者に伝えて納得してもらうことはまだまだハードルが高いのかなと思っていて。オープンマリッジを公言している方がこのアプリを使うケースはまだ少ないのかなと思っています。

しかし、最近社会的にも、「オープンマリッジ」や「セカンドパートナー」、またドラマの影響などで「2つの夫婦がいて、お互いの配偶者を交換しましょう、そういう恋愛をしましょう」といった少しカジュアルな婚外恋愛の形も社会的に認知されつつあると思います。現時点においてはまだマイノリティですが、こうした関係性の認知が推進されると、そうした方の利用も増えるのかなと思います。

マッチングアプリ「Cuddle」ロゴ



──そうした関係性の認知も含め、「Cuddle」が今まで日本にはあまりなかった多様な価値観の実現のために貢献する側面はあると思いますか?

渡辺祐介 「Cuddle」はサービスを開始してまだ1年半ぐらいなのですが、利用者の方々が我々の想像以上に非常に増えています。そこから考えると、既婚者同士の交友関係を求めている人がとても多かったんだろうなと思います。

結婚する前は出会いを強く推奨されるのに、結婚した後は出会いに関するサービスも含めて一気に何もなくなってしまう。新たな出会いにワクワクするような場がなくて、(特に異性同士が)会っているとすぐに「不倫」だと叩かれてしまう。そこに対して皆さんモヤモヤしていたのかなと。

既婚者同士だからこそ話し合える共通の話題もあると思うので、この切り口で機会を提供することによって皆さんがハッピーになるのであれば、「Cuddle」としてやりたいなと思っています。
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