明治時代後期(1890年~1900年代)、貨幣・金融制度が整備され、財閥が持株会社を設立し、資本主義化を進めていく日本。その一方で、数々の社会問題に対処すべく、政府が規制や弾圧を強めていたと、『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏はいいます。そんな社会問題が“てんこ盛り”だった当時の国内情勢について、詳しくみていきましょう。

貨幣・金融制度の確立と「財閥」の形成

1880年代半ば、日本は銀本位制を確立しましたが、欧米は金本位制を採用しており、産業革命推進のために貨幣・金融システムを欧米と共通にする必要が出てきました。そこで、1890年代後半、日清戦争の賠償金を用いて正貨蓄積()を進め、〔第2次松方内閣〕貨幣法(1897)を制定して金本位制を確立しました。

国内では紙幣と金の兌換が保証され、外国との間では「100円=約50ドル」の固定為替相場で金輸出入を自由化し、貿易が安定しました。さらに、日本の通貨が国際的な信用を得て、外資導入も容易になりました。

また、特別法で設置を認可された特殊銀行として、貿易金融を行う横浜正金銀行に加え、日清戦争後は農工業に長期的な融資を行う日本勧業銀行や、植民地の発券・金融を行う台湾銀行も設立されました。

「政商」が発展し「持株会社」となり、「財閥」が形成

近代史における大企業というと、財閥を思い浮かべる人も多いと思います。その始まりは、三井・三菱・古河などの政商です。これらは官営鉱山(炭鉱・銅山など)の払下げを受け、鉱工業を基盤に発展していきました。

そして、様々な業種(異なる産業部門)の傘下企業を抱えて多角経営を展開していき明治時代末期からは、持株会社が傘下企業の株式を所有して支配していく、コンツェルン形態を整えました。四大財閥と言えば三井・三菱・住友・安田で、三井合名会社(1909)が最初の持株会社です。

産業革命を支えた「植民地」「貿易」「農業」

植民地や権益は、食料・原料・資源の供給地工業製品の市場として重要でした。大正期に都市人口が増加し、朝鮮・台湾から米の移入が増えました。

貿易は、1890年代後半から1910年代前半にかけて輸入超過の状態が続きました。産業革命の進展で製品(生糸・綿糸・綿布)の輸出は増えたものの、原料(綿花・鉄鉱石)・鉄類・機械の輸入も増えたためです。

農業は立ち遅れていました。米作中心の零細経営で、商品作物(綿花など)の栽培は衰える一方、桑の栽培と養蚕(繭を生産)が広まりました。

労働運動の活性化を規制する「治安警察法」が制定

1880年代後半~90年代産業革命が始まり労働者が増加するなかで、早くも繊維産業に従事する女工による労働争議が発生しました。労働者が団結してストライキを起こし、劣悪な労働条件の改善を資本家(経営者)へ要求したのです。

日清戦争後の1890年代後半、労働者日常的な労働運動の組織化を図り、労働組合を結成して経営者の圧力に対抗しようとしました。アメリカで労働運動を学んだ高野房太郎が、片山潜とともに労働組合期成会(1897)を結成し、鉄工や鉄道関連などの男性労働者労働組合を指導しました。

しかし、〔第2次山県内閣〕治安警察法(1900)を制定し、労働運動を規制しました。

近代最大の公害問題の発生

足尾銅山鉱毒事件とは、古河古河市兵衛)が経営する栃木県足尾銅山が廃水を垂れ流し、鉱毒によって渡良瀬川の流域の農業に被害を与えた事件です。

衆議院議員田中正造が議会で追及しましたが、外貨を獲得する輸出産業であった産銅業を守りたい政府は、鉱毒対策に及び腰でした。田中正造は議員を辞職し、天皇へ直訴しようとしましたが、果たせませんでした(1901)。その後も、田中正造は地域住民とともに、政府に抗議し続けました。

日本初の社会主義政党「日本社会党」が結成するも……

社会主義は、資本主義による格差拡大を否定し、貧困者救済・経済活動規制・土地や資本の公有などの手段で社会平等を達成しようとする考えです。しかし、膨大な私有財産を所有する資本家・地主は社会主義に反対し、資本家・地主に支えられる政府は、社会主義を危険なものとみなして規制しました。

日本では、最初の社会主義政党として社会民主党(1901)が安部磯雄・片山潜幸徳秋水・木下尚江らによって結成されました。しかし、治安警察法で即日禁止となりました。

日露戦争が近づくと、平民社(1903)が幸徳秋水・堺利彦らによって結成され、『平民新聞』を発行して日露戦争に反対しました。日露戦争ののち、最初の合法的な社会主義政党として日本社会党(1906)が結成され、〔第1次西園寺内閣〕が公認しました。しかし翌年禁止されました。

こうしたなか、大逆事件(1910)が発生しました。管野スガらの社会主義者による天皇暗殺計画を理由に、〔第2次桂内閣〕は全国の社会主義者を逮捕し、翌年幸徳秋水らを死刑としました(幸徳秋水は暗殺計画に関与せず)。

こののち、社会主義運動は低調となりました(「冬の時代」)。また、東京府警視庁に政治犯・思想犯を取り締まる特別高等課特高)が設置されました。

政府による労働者の保護政策で「工場法」が制定

社会主義運動を徹底的に弾圧した〔第2次桂内閣〕ですが、1910年代になると、労働者を保護する社会政策も行い(労働者から徴発する日本軍兵士の弱体化を防ぐ意図があった)、労働者に対する事業主の義務を定めた工場法を制定しました(1911)。

しかし、労働者の保護は、1人あたりの労働時間短縮や賃金上昇などのコストアップにつながるため、輸出産業である繊維産業の業界からの反対が多く、施行は5年後の1916年となりました

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)