1910年代、大正時代の日本では、国民意識の高まりが後押しとなり、藩閥に代わって政党の勢力が伸張したことにより、政党政治が発展していった、と『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏はいいます。本格的な政党内閣が誕生し、普通選挙制度が実現した、当時の日本の政治状況について、詳しくみていきましょう。
内閣打倒をめざす「第一次護憲運動」が全国的に展開
1912年に明治45年から大正元年に移行したころ、陸軍2個師団増設(朝鮮に駐留)の問題は、立憲政友会が与党の〔第2次西園寺公望内閣〕を揺さぶりました。
内閣による増設の却下に反発した陸相が辞任し、軍部が後任陸相の推薦を拒否すると、軍部大臣現役武官制の制約で総辞職となったのです。そして、元老山県有朋の系列(陸軍・長州閥)である超然内閣の〔第3次桂太郎内閣〕が発足すると、内閣打倒をめざす第一次護憲運動(1912)が発生し、全国的な国民運動に発展しました。
運動は「閥族打破・憲政擁護」(藩閥の打倒・世論尊重の実現)をスローガンに、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党(もと憲政本党)の党首犬養毅が主導しました。
実は、桂は山県の影響から離れて政党政治への移行を望んでおり、桂派官僚に立憲国民党の一部を加えた与党の形成(のち立憲同志会として成立)を画策しました。
しかし、時すでに遅し。民衆の議会包囲が続くなか、桂は首相在任わずか62日で辞職しました(大正政変)。
政党の勢力伸張により、政治に及んだ影響は?
海軍の〔第1次山本権兵衛内閣〕は立憲政友会が与党となったことから、軍部大臣現役武官制の改正で陸海軍大臣の現役規定を廃止し、文官任用令の再改正で政党員の官僚機構進出を再び可能とするなど、政党に配慮した制度変更を進めました。
しかし、海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)で総辞職しました。次の〔第2次大隈重信内閣〕は与党立憲同志会の総裁加藤高明が外務大臣となり、第一次世界大戦が勃発(1914)すると参戦を推進しました。
民衆運動の高まりにより、本格的政党内閣が誕生
山県系(陸軍・長州閥)である超然内閣の〔寺内正毅内閣〕も、次第に政友会・国民党と協力し、また中国権益確保につとめました(石井・ランシング協定など)。
しかし、大戦景気下での都市化で米消費が増えて米価が上昇し、加えてシベリア出兵(ロシア革命で誕生した社会主義政権への干渉戦争)による軍用米需要を見越した買占めが重なり、米価が暴騰しました。
そして、富山県で始まった安売り要求運動が、新聞報道もあり全国に波及して米騒動(1918)に発展すると、軍隊も出動させた鎮圧に批判が高まり、総辞職しました。
積極政策を実行した「平民宰相」原敬内閣
民衆運動の高揚を前に、元老山県有朋らも政党内閣を認め、立憲政友会が与党の「本格的」(首相が衆議院に議席を持つ)政党内閣である〔原敬内閣〕が成立し、原は「平民宰相」と呼ばれました。
原は政友会の公約である積極政策を実行し、大学令で帝国大学以外の大学(私立・公立)を認可し、官鉄拡張や海軍軍拡の計画で農村や軍部の支持を得ました。
しかし、普通選挙の導入は拒否し、選挙法改正で納税資格を直接国税3円以上へ引き下げ、小選挙区制を導入しました。納税資格の急速な撤廃は、格差解消をめざす社会主義的な考えにつながり、社会秩序の維持には不適当だと原は考えたのです。
また、第一次世界大戦終結(1918)でパリ講和会議に参加する一方、戦後恐慌で積極政策が行きづまりました。原の暗殺後、立憲政友会による政党内閣の〔高橋是清内閣〕はワシントン会議に参加し、協調外交の基礎を築きました。
第二次護憲運動はどのように展開したのか?
海軍の〔加藤友三郎内閣〕の後、関東大震災(1923)の直後に成立した〔第2次山本権兵衛内閣〕は戒厳令を発し(市民による朝鮮人・中国人殺傷事件や、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝が憲兵の甘粕正彦に殺される事件が発生)、震災恐慌が広まるなかで復興に尽力しました。しかし、無政府主義者(無政府主義は社会主義の一種で、権力を否定して小規模コミュニティを重視)が摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)を狙撃した虎の門事件を機に、総辞職しました。
〔清浦奎吾内閣〕成立の背景には、政党と距離を置く清浦に総選挙を行わせ、民意で政党政治を復活させるという元老西園寺公望の判断がありましたが、貴族院が基盤の超然内閣だったため、憲政会(もと立憲同志会)・立憲政友会・革新俱楽部(もと立憲国民党)の護憲三派は政権奪還をめざして第二次護憲運動(1924)を開始し、「普選断行」などを選挙公約としました。
これに対し、現内閣での政権担当を望む勢力が立憲政友会から脱党し、政友本党を結成して与党化しました。結局、解散・総選挙で護憲三派が圧勝し、総辞職しました。
普通選挙制度の実現と、「治安維持法」の制定
政党内閣が復活し、護憲三派(最多議席が憲政会)が与党の〔第1次加藤高明内閣〕が成立しました。そして、普通選挙法を制定し(1925)、満25歳以上の男性全員が選挙権を持ち、普通選挙制度の公約を実現しました。
同時に、共産主義(革命による労働者政権樹立と財産共有による平等社会をめざす)を取り締まる方針で治安維持法を制定し(1925)、国体の変革や私有財産制度の否認(天皇制の打倒や資本主義の否定)を目的とする結社の処罰を定めました。
普通選挙で拡大する労働者階層の政治的影響力に歯止めをかけるとともに、ソヴィエト連邦との間で日ソ基本条約を結んだことで、日ソ国交樹立による共産主義の流入を防ぐ意図がありました。
のち、憲政会を単独与党とする〔第2次加藤高明内閣〕が成立しました。
「憲政の常道」は、どのようにして生まれたのか?
大正後期から昭和初期にかけて、もと立憲政友会総裁の元老西園寺公望が、〔犬養毅内閣〕までの7代にわたって衆議院多数党の党首を首相に推薦し、「憲政の常道」(1924~32)と呼ばれる政党内閣の慣行が継続して、政党政治が発展しました。立憲政友会と、憲政会(のち立憲民政党)が交代で与党となる、二大政党制の時代となったのです。
山中 裕典
講師
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