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 歴史的に有名な人物を研究するとき、その作品や資料を手に入れることは、通常最大の障害になる。

 中でも、夫のピエールと共にポロニウムラジウムを発見し、素粒子物理学という考え方を生み出したマリ・キュリーの生涯について書いている人にとって、事態はますます困難だ。

 彼女のノート、衣服、家具(研究室は言うまでもない)、パリ郊外の彼女の家にあったもののほとんどは、放射性物質を含んでおり、これは今後1500年以上続くという。

【画像】 放射性物質の危険性をわかっていなかったキュリー夫人

 キュリー夫人の直筆原稿を直に見たい場合は、フランスの国立図書館で免責同意書にサインしなくてはならない。

 そうしないと、鉛で裏打ちされた箱に封印されたノートにアクセスすることはできない。

 キュリー夫妻は、放射線を出す能力(放射能)については認識していたが、放射性物質の危険性はよく知らなかった。

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 ふたりの研究は、どの物質が放射性物質なのか、その理由はなにかを解明しようとしたもので、トリウムウランプルトニウムといった多くの危険な元素が家の研究室に無造作に放置されていた。

 これらは夜になると輝きを放ち、キュリー夫人はこれを美しいと思い、まるではかない妖精の光のようだと感じた、と自伝に書いている。

 夫人はこれら光る物質を無造作にポケットに入れて持ち歩いた。夫婦とも、標準的な実験着を着ていたが、それ以上の防護はなにもしていなかった。

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public domain/wikimedia

放射性物質が原因で死亡

 1934年キュリー夫人は、放射性物質の研究が原因だとされる再生不良性貧血で、66歳で亡くなった。

 しかし、夫妻の邸宅はパリ大学理学部原子核物理研究所とキュリー財団によって、1978年まで使われていた。

 その後は監視下に置かれたが、当局はようやく内部の危険性に気がついた。

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 『ル・パリジャン』紙が報じたように、近隣住民の多くが、自分たちのガンの発生率の高さに気づいたとき、キュリー夫人の家のせいだと非難した。

 研究室と建物は、キュリー夫人のノートや資料へのアクセスが許され、家から持ち出され始めた翌年の1991年に除染された。

 その後すぐに、伝記が次から次へと出版された。

1995年スーザン・クイン著『Marie Curie: A Life』、1998年アンナ・ハーウィック著『ピエール・キュリー』、1999年、ロイック・バルボ著『Curie: Le reve scientifique 』、2001年、ソラヤ・ブーディア著『Marie Curie et son laboratoire』、2005年、バーバラ・ゴールドスミス著『Obsessive Genius: The Inner World ofMarie Curie』、2011年、ローレン・レドニス著『放射能 キュリー夫妻の愛と業績の予期せぬ影響』などがある。

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 それでも、科学の名のもとに世界を変えた人物にとって、たとえ66歳で亡くなったとしてもそれほど惨めなことではない。

 マリ・キュリーは、1903年にノーベル賞を受賞した初の女性で、1911年に再びノーベル賞を受賞した唯一の女性だ。

 さらにパリ大学の教授になった最初の女性であり、彼女自身の功績によってパリのパンテオンに埋葬された初めての女性でもある。

 1906年に、夫ピエールが雨のパリで、足を滑らせて転倒し、馬車に轢かれて亡くなった後も、多くの飛躍を遂げた。

References:Marie Curie's Research Papers Are Still Radioactive a Century Later | Open Culture / written by konohazuku / edited by / parumo

 
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キュリー夫人の研究論文は1世紀たってもなお放射線を含んでおり今後1500年以上続く