どうして警察の発表だけをもとに報道機関に呼び捨てにされて自分が報じられなければいけないのか。そう憤った一人の男性が1980年代、日本の報道に一石を投じた。

1984昭和59年)1月、三重県鳥羽市で起きたゴミ収集車の死亡事故。その約3カ月後、鳥羽警察署が清掃会社社長の品野隆史さん(82)を業務上過失致死の疑いで書類送検したと記者会見で発表する。翌日、朝日新聞毎日新聞読売新聞は品野さんを呼び捨てで報じた。この事件に限らず、当時は他の事件でも呼び捨てが当たり前だったいう。

これに怒った品野さんはその後、3社と三重県を相手取り慰謝料を求めて提訴。津地裁、名古屋高裁、最高裁のいずれも品野さんの訴えを認めなかったが、多くの報道機関は1989年から、逮捕時に呼び捨てをやめ「●●容疑者」とつけるようになった。

しかし品野さんは、それから40年近く経った今も納得していない。「報道機関は何を偉そうに“容疑者”と言うんですか。裁判所ではなく、なぜ報道機関が市民に判決を下すんや」と。(弁護士ドットコムニュース編集部・山口紗貴子)

●ゴミ収集車のふたに挟まれ、従業員2名が亡くなる

昭和17年、品野さんは7人兄弟の末っ子として、京都市内で生まれた。日本画家の父には「職人にはなるな」と諭され、母からは「プライドだけでは生きていけへん」と教えられ、高校卒業する頃には自然と、商売人を志すようになった。

大阪の食品会社や船場、外資系企業などで商売を学んだ後、1972年昭和47年)、妻の実家がある三重県伊勢市で水質や汚泥調査などを行う会社を創業した。徐々に運送などにも事業を広げ、鳥羽市、伊勢市、二見町(現在は伊勢市)の3カ所で事業所を開くまでに発展していく。

1977年昭和52年)からは鳥羽市の委託を受け、ごみ収集の事業も始めた。事故が起きたのは、1984年のことだった。

「忘れもしません。1月9日午前11時過ぎのことです。鳥羽市の空き地で作業を行っていた従業員2人が、空き缶が詰まったので後ろの扉をあけて取り出そうとしたところ、収集車の鉄製のフタに上半身を挟まれ亡くなったのです。1人は父の兄の孫にあたる、私の身内でした。自動車会社を辞めて私のところに入ってくれて、機械に強い、いい男でした。弟のように思っていましたけど、他の社員の手前、身内だからこそあえて厳しくしていた。

かわいそうなことをした、自分の命を代えてでも、と何度思ったことか。2人を亡くしたことは一生背負っていかなければいけません。今も私の肩に重くあります」

収集車は1976年昭和51年)から使っており、油圧式でふたが上下する仕組みで、事故当時、運転席にあるレバーはふたを上げる方に入っていたという。事故後、警察が事業所を訪れることはあったが、品野さんに対しては同情的であるようにも感じていた。

「亡くなった2人はベテランでしたから、操作上の問題ではなく、もしかしたら収集車の問題があるのではないか。そう考えて調べたところ、同じメーカー、同じ型の収集車が全国各地で同様の死傷事故を起こしていることがわかったんです。

警察にはそのことも伝えたんですが、『そんな大企業相手に裁判やっても勝てませんよ』と。むしろ従業員を亡くして落ち込んでいる私に対して、刑事は『死んだらあきまへんで』と慰めることもありました。警察署に呼ばれたこともなかったですし、まさか私が疑われているとは思いもしませんでした」

青天の霹靂、書類送検されたことを報道で知る

事故から約3カ月後の4月20日三重県警鳥羽署は品野さんを業務上過失致死の疑いで津地検伊勢支部に書類送検したと明らかにする。翌日の朝刊で、新聞各紙は品野さんを呼び捨てで報じた。

記事の内容は警察の発表に基づくもので「ごみ収集車にはふたを支える安全棒が付いていたが、さびついて使えなかった。品野隆史はこれを知っていたのにごみ収集車の安全点検や修理を怠った疑い」(朝日新聞4月21日朝刊)などと報じた。中日新聞だけは「品野隆史社長」と書いた。

書類送検は、品野さんにとっては青天の霹靂だった。

「新聞に載る前、どの社からも取材依頼はなかったですよ。朝、新聞を読んで、自分が書類送検されたことを知ったんです。朝日だけは久留米市で同じような事故が起きたことを書いてくれましたけど、どこも警察の言い分ばかりで私の主張すら聞かずに、私を呼び捨てで犯人扱いしてきたわけです。せめて私の言い分は聞かんと。言い分あるやろ? と聞いてくれたら、それでよろしいんや」

周囲には「人の噂も七十五日」と言われたし、小学生から高校生まで4人の子は学校でいじめられることもなかった。取引先も品野さんを信頼して、変わらず契約を続けてくれた。そのまま見過ごすこともできたが、品野さんにはどうしても引き下がることはできなかった。

「それまでも、本人には避けられなかったであろう、どうしようもない事故でも呼び捨てにされていることは気になっていました。でも他人事だったんでしょうね。いざ自分にふりかかって、このままにしてはいかんなと思ったわけです。お金と時間がかかるのもわかったし、裁判で勝つのは難しいのもわかっていた。

でも名誉を傷つけられるのがイヤだったわけです。裁判に負けても、裁判の事実が知られることで私の名誉を回復したいという思いで提訴することを決めました」

●「実名、呼び捨ての形で表記した点に違法性は認められない」

品野さんは書類送検されたものの、結局は起訴猶予となった。

ついに品野さんは、朝日、毎日、中部読売、警察(被告は三重県)を相手取り、「呼び捨てと犯人扱いはけしからん」として、慰謝料1000万円を求めて津地裁に提訴した。提訴の記者会見には各社集まったが、報じた社は皆無だったという。

「ある新聞社では、記者が記事にしようとしたのに、デスクが『こんなことが知られたら、他にも何百という裁判を起こされる』として止められて大喧嘩になったと言うんですね」

裁判では報道部長らが証人に立って、呼び捨て報道に違法性はないとの主張を繰り返した。

代理人の中村亀雄弁護士によれば、裁判で被告側は「警察の発表した事実を正確に報道した以上過失がない」「被疑者の呼び捨ては数十年にわたる慣行であり、社会通念である」「匿名にすると逆に無関係の人々が疑われる弊害が生ずる」「公益をはかる目的だから違法性がない」などと主張したという。(出典:『法学セミナー』1988年01号)

裁判は津地裁、名古屋高裁、最高裁ですべて敗訴となる。最高裁小法廷は1999年3月2日、「報道に際し、実名により、かつ呼び捨ての形で表記した点に違法性は認められない、として二審の判断は正当として是認できる」とし、1、2審判決を支持し、上告を棄却した。

品野さんはこの判決について、「裁判官はバカだと思いましたよ。体制に応じた判決でしかない。慣例だからと惰性でやっている報道機関に“間違っているんや”と言って欲しかったですね」と悔しがるが、この裁判とともに報道のあり方に関する議論が活発化していった。

●「国民に判決を下してもらいたいんや」

「裁判の判決では負けても、国民に判決を下してもらいたいんや、と思っていました。裁判を起こしたことで、新聞社やらのシンポジウムに招かれて東京で話をさせてもらったり、いろいろな雑誌や書籍で私の言い分を聞いてもらったり。偉い大学の先生や弁護士さんに、そうだそうだ、品野さんの言っていることが正しいと言ってもらうこともありましたね」

1989年末には、ほとんどの報道機関が呼び捨てをやめ「容疑者」との呼称をつけるようになった。しかし、これにも品野さんは納得していない。

「なんで“容疑者”なんや、と。疑いがあるということやからね。それでなぜ、実名を出すんですか。せめて判決が下りるまでは“●●さん”や“●●氏”と呼べばいいんじゃないですか。無罪推定なんだから逮捕や書類送検時に公表する必要だってない。マスコミだって調べるわけではなくて、ただ警察の発表に基づいて、自分たちの推量で書いてますんや。判決が下りてから報じてもいいのではないですか。

大体、裁判所ではなく報道機関がなんで判決を下すんや。呼び捨てから容疑者と言うようになって変わったと思っているかもしれないですけど、自分たちが偉いという姿勢は変わっていないんじゃないでしょうか。弱い者を叩き、強い者に阿(おもね)って、商売の利益を優先する。それでいいんでしょうか」

現在81歳の品野さんは、今も新聞各紙を読み、社会や政治、報道のあり方に厳しい視線を送っている。

「なぜ報道機関が市民に判決を下すんや」書類送検で呼び捨て報道に怒り 新聞社を提訴した男性の戦い