かつてソ連に攻められたフィンランドは、慌てて他国から戦闘機を集めます。その中のひとつが、アメリカ製のF2A「バッファロー」でしたが、同機はフィンランドと他の国では大きく評価が異なります。

アメリカから「鉄鋼製品」として輸出される

第二次世界大戦中の1939年11月30日から1940年3月13日にかけて、フィンランドは領土割譲を迫ったソビエト連邦に攻められ戦うことになりました。この戦は「冬戦争」といわれ、フィンランドの領土割譲により終了し、翌年に行われる継続戦争引き金ともなりましたが、戦闘に関してはフィンランド軍が持ちこたえ、自国領の奥深くにはソ連軍を入れませんでした。

この戦争中の1940年1月頃、アメリカから建前上“鉄鋼製品”として、ノルウェー経由でフィンランドに届けられた戦闘機がありました。それはアメリカのブリュースター社が開発した戦闘機F2A「バッファロー」で、後にフィンランドでは、その圧倒的な強さから「蒼空の真珠」(タイバーン・ヘルミ)とまで呼ばれる機体になりました。

冬戦争中、同空軍はかなり小規模で、どうにか各国から集めた旧式戦闘機やソ連軍から鹵獲した戦闘機などを修理して使用していました。そうした状況をなんとかするために接近したのが、当時はまだ中立を宣言していたアメリカでした。アメリカではF2A「バッファロー」が海軍の正式装備から外れたばかりで、それに目をつけたのです。

ただ、同機は日本軍が相手だった太平洋での戦いにおいても、開戦序盤にアメリカやイギリス軍が使用しましたが、評価は散々なものでした。

日本軍が装備する零式艦上戦闘機(零戦)や一式戦闘機「隼」とは、配備時期が3年ほどしか変わらないにも関わらず、鈍重で一方的に撃墜されることになり、戦った相手である日本陸海軍のパイロットにはそのフォルムにちなみに「ビア樽」と揶揄され、アメリカ軍パイロットからも「空飛ぶ棺桶」と言われました。

しかし、国家存亡の危機に際しフィンランド空軍にもたらされたわずか44機の「バッファロー」は、開戦時に使っていたオランダ製のフォッカーD.XXIに比べ、引き込み脚を備えるなど、保有していた戦闘機より先進的な設計でした。

1941年6月25日から始まったソ連との継続戦争では、フォッカーD.XXIの代わりに「バッファロー」を前線に送り出すと、目覚ましい能力を発揮。質量ともに勝るソ連機を相手に、約21対1という驚異的なキルレシオ(撃墜比率)を叩き出します。つまり「バッファロー」を1機撃墜するまで、ソ連軍は21機の軍用機を失ったということです。この戦果によりフィンランド軍には多数のエースパイロットが誕生しました。

そもそもなぜフィンランドで活躍できたのか

なぜ「バッファロー」は太平洋では散々だったのに、フィンランドでは活躍できたのでしょうか。その理由のひとつに、当時問題となっていた冷却系のトラブルが改善されたことがあげられます。

太平洋で運用されていた「バッファロー」はエンジンのオーバーヒートなどで、性能をフルに発揮できない場面が多くありました。しかし、冬にはマイナス30度まで下がるといわれるほど平均気温が低いフィンランドでは、この問題が解消されることになったのです。

また、フィンランドの「バッファロー」機体は、前述した通り、アメリカから鉄鋼製品として運ばれたため、ノルウェーで陸揚げされたあとにスウェーデンサーブの工場で組み立て、フィンランド軍が独自に調達した照準器、装甲版をつけて戦闘機としました。そのため、そもそもの性能がアメリカやイギリスが使っていた機体とかなり違ったという可能性もあります。

エースパイロットのひとりだったイルマリ・ユーティライネンも、「かなり操作しやすい機体」だと、他国パイロットとは全く違う評価をしています。スウェーデンで組み立てて、フィンランドで整備を続ける間に、全く別モノの機体になっていたかもしれません。

さらに、フィンランド人パイロットの練度がそもそも高く、冬戦争から旧式機でソ連空軍を相手に善戦していたため、それよりも装備が新しくなった継続戦争ではより実力を発揮したともいわれています。

ちなみに、同機の購入に関しては、現在もフィンランド国内の大手通信インフラ会社であるノキアが資金援助を行っています。

フィンランド空軍が運用したF2A「バッファロー」(画像:フィンランド国防省)。