ドイツが最前線で手軽に使えるよう開発した小型機Fi156シュトルヒ」は、優秀な離着陸性能から、敵として戦ったアメリカやイギリス軍将兵からも愛されました。しかも大戦中の一大奇襲作戦にも使われ、その成功に貢献しています。

ドイツ軍将兵が愛した「戦場のコウノトリ」

第2次世界大戦中、ドイツ空軍は短距離離着陸性能に優れたフィーゼラーFi156シュトルヒ」という小型機を使用していました。「シュトルヒ」とはドイツ語コウノトリの意味。いうなればFi156は「戦場のコウノトリ」と呼べる機体です。

同機は戦闘機爆撃機のように敵を攻撃するための航空機ではありませんでしたが、さまざまな任務で用いられ、前線の兵士たちから高く評価されたとか。しかも、他機にはまずない、本機ならではの優れた飛行性能から、大戦中には類い稀なる数々の戦績まで残しています。いったいどのような飛行機だったのでしょうか。

そもそも、「シュトルヒ」が世に出る端緒になったのは、1935年ドイツ航空省(後のドイツ空軍)が提示した新しい連絡兼前線偵察機の要求仕様でした。それは、パイロットを含む乗員3名を収容し、不整地での短距離離着陸が可能で、偵察に適した視界良好なコックピットと堅牢な主脚を備えた単葉機というものです。

数社のエントリーがあったなかで、もっとも優れていたのがフィーゼラー社の提出した設計案でした。そこで同機はFi156シュトルヒ」と命名されて生産がスタート。1937年から部隊配備が開始されました。

シュトルヒ」の短距離離着陸能力は、離陸時は約50m前後、着陸時には約20m前後の滑走で済むほど優れていました。この広さはちょっとした小学校のグラウンド、屋外プールなどと同じです。周りに建物がなければ、この長さの砂利道でも離着陸可能ということです。

しかも、低速飛行時の安定性にも優れていたため、飛行中に強い向かい風を受けている状態なら、空中でほぼ停止することもできました。まだヘリコプターが実用化されていなかった当時、この短距離離着陸能力は、最前線で使うのに極めて向いており、第一線の地上部隊で重宝された理由の1つにもなりました。

また、こういった不整地での運用を支えたのが、ショックアブソーバー内蔵のサスペンションが効いた主脚です。この主脚のおかげで、本機はかなりの不整地でも離着陸できたのです。

飛行機が使えない場所にたびたび降臨!

Fi156シュトルヒ」の能力がもっとも発揮されたのが、第2次世界大戦中の1943年9月12日に実施されたムッソリーニ救出作戦「アイヒェ」です。

イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世は、戦況の悪化や国内情勢の変化を理由に、当時、同国の事実上の指導者であった統領ベニト・ムッソリーニを解任。グラン・サッソ山塊のホテル「カンポ・インペラトーレ」に軟禁しました。

これに対し、同盟国ドイツの指導者であったヒトラーは、「枢軸の盟友」を救うべく特殊作戦に長けた腹心、オットー・スコルツェニーSS(武装親衛隊)少佐に命じて奪回および救出のための本作戦を実施したのです。

スコルツェニーSS少佐は、精鋭部隊の指揮官としてさまざまな特殊作戦に従事したことから、「ヨーロッパでもっとも危険な男」との異名が付けられたほどの逸材です。そんな彼が目を付けたのが、離着陸性能に優れた「シュトルヒ」でした。

ムッソリーニが軟禁されているホテルの前には、猫の額ほどの空き地が広がっていました。そこでスコルツェニーは、「シュトルヒ」なら空路ムッソリーニを脱出させることが可能と判断。こうして裏をかくことで、奇襲作戦を成功に導いたのです。

また大戦末期の1945年4月23日ベルリン攻防戦の最中、ヒトラードイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥を罷免し、ロベルト・フォン・グライム空軍元帥をその後任とするため、ソ連軍包囲下のベルリンにある総統地下壕に呼び寄せました。

これに応えたグライムは同月26日、自ら「シュトルヒ」の操縦桿を握り、著名な女流飛行家ハンナライチュとともに総統地下壕近くのティアガルテンに設けられた臨時滑走路へ着陸を試みます。ところが、着陸直前にグライムは、すぐ近くまで迫っていたソ連軍の対空射撃を受けて足を負傷し操縦が困難に。そこでライチュが操縦を手助けすることで、敵中ながら無事に着陸を果たしています。

これもまた、短距離離着陸性能に優れ、優れた操縦安定性を誇る「シュトルヒ」らしい逸話といえるでしょう。

イギリスで「シュトルヒ」を愛用したのは?

ほかにも「シュトルヒ」を重用した将官として、「砂漠の狐」の異名が付けられた、かのエルヴィン・ロンメル元帥も忘れるわけにはいきません。北アフリカに広がる広大な砂漠の戦場で、自身の目で直接偵察したり陣頭指揮をとったりするため、急ぎ移動する際に本機を活用したといわれています。

ソ連軍戦闘機の活動が少ない東部戦線では、「シュトルヒ」は重要な連絡任務を帯びた高級士官を短時間で運ぶ「空のタクシー」として用いられたばかりでなく、急ぎ後送が必要な重傷者を運ぶ「空の救急車」としても重用されました。

しかも、「シュトルヒ」の優秀な点は離着陸性能や高い操縦安定性以外にもありました。それは構造が単純で整備しやすかったことです。だからこそ、第一線部隊でも多用できたと言えますが、その整備性の高さゆえに、なんと敵側のアメリカ軍でも、無傷の機体を鹵獲すると自国の国籍マークを大書きして、「員数外の使い捨てOKの機体」として多用したとか。

また、アメリカと同じくドイツと戦っていたイギリス軍でもその傾向は見られました。代表的なのは、「モンティ」の愛称で呼ばれたロンメルのライバル、バーナード・モントゴメリー元帥でしょう。

彼は個人機として、ドイツから鹵獲(ろかく)した「シュトルヒ」を愛用したそうで、また同空軍の何人かの将官もモントゴメリーと同じく、個人機として「シュトルヒ」を利用したといわれています。

ちなみに、大戦中「シュトルヒ」は、ドイツ占領下だったフランスのモラン・ソルニエ社でも造られました。これにより、同社の機体は戦後もMS.500「クリケ」として生産が続けられ、星型エンジンに換装したモデルも生まれています。

だからか、「シュトルヒ」は大戦終結から80年以上経った2023年現在でも飛行可能な機体が数多く残っており、ゆえに今日も、エアショーなどで「シュトルヒの血を引く機体」は元気に飛び回っています。

Fi156「シュトルヒ」の機首部のアップ。操縦席のガラス部分が左右に大きく張り出しているのがわかる。これで良好な下方視界を確保していた(画像:フィンランド国防省)。