27歳の女性小説家が執筆のため、自らセックスワーカーとして娼館を潜入調査した実際の経験を基にする映画『ラ・メゾン 小説家と娼婦』(公開中)は、当初男性監督が原作の版権を得ていたという。ところがその後、原作者のエマ・ベッケルは俳優としても活動し、ドキュメンタリー映画『ワンダーボーイ』(19)を撮ったアニッサ・ボンヌフォンを直々に指名。ボンヌフォンの女性としての視点とドキュメンタリー作家としての視点が見込まれ、女性の作家と女性の映画監督によるコラボレーションが生まれた。フランスからベルリンへと移り住んだ主人公エマ(アナ・ジラルド)は、二週間限定で娼館に潜入することを決意。冷たく暴力的な娼館「カルーセル」から、まるで女性たちが家族のように働く娼館「ラ・メゾン」へと場所を移しながら、エマは未知なる世界の魅力に取り憑かれてゆく…。

【写真を見る】危険で魅惑的な娼館の世界へ潜入…あられもない姿で客と絡み合う女性たち

■新たな視点で描きだされる“買う男”と“娼婦”

本作でエマが初めての客を相手する場面では、エマのPOVショット(主観ショット)が採用され、観客は彼女の視点を通して男性客と彼女自身の身体をまなざす。古くは田中絹代監督による『女ばかりの夜』(61)や、より近年では山田佳奈監督による『タイトル、拒絶』(19)といった女性の映画監督によるタイトルがあるものの、これまで映画にとっても魅力的なモチーフであった“娼婦”がほとんど男性目線によってスクリーンに映しだされてきた歴史に鑑みた時、この映像表現は、本作が女性目線による作品であることの高らかな宣言でもあるだろう。ジャーナリズムやアカデミズムまで、言説空間においても“買う男”よりも圧倒的に“売る女”のほうばかりが語られてきたように、映画でもまたまなざされる側は大抵の場合つねに娼婦だったが、そこではまなざされる側が“買う男”へと反転される。

このように『ラ・メゾン 小説家と娼婦』はテーマのセンセーショナルさに目が奪われがちである一方、意匠の凝らされた画も魅力の一つと言える。例えばボンヌフォン監督によれば、映画の舞台となる2つの娼館に対し、カルーセルはブルーとピンク、ラ・メゾンは赤とワインレッドと、それぞれ異なる色彩を与えたという。そうした色の効果によってもエマが身を置く娼館が、彼女にとってどんな場所なのかが伝わってくる。娼館の場面は彩度が高くギラギラしたトーンである一方、日常生活の場面は彩度が低く落ち着いたトーンによって撮影され、そうして分断された“非日常”と“日常”のあわいをエマは行き来する。

また、身体の関係を続けている既婚者の友人もいたエマだったが、マッチングアプリで知り合ったイアン(ルーカスイングランド)と恋愛をしはじめる。エマはイアンに対して、仕事でする性行為と恋人とする性行為は違うものだと説明するが、閉塞的な場である密室で行われる前者に対し、後者は開放感溢れる公園で行われる様子が描かれており、そうした空間の対比が視覚的にもエマにとってそれらが別物であることを示す。性描写はネオンライトの光や洗練された音楽によって彩られ、エロティックさよりもオシャレな質感でどこかカラッとしている。その映像は、スウェーデン生まれの女性映像作家エリカ・ラストによるスタイリッシュなポルノ作品の数々も彷彿とさせる。

■同じ境遇を介した女たちの緩やかでかけがえのないつながり

娼館のラ・メゾンには、個性的な女性たちが集う。例えばスペインの巨匠ペドロ・アルモドバル作品でもお馴染みの役者であるロッシ・デ・パルマをはじめ、年齢層も幅広い。劇中のエマは27歳だが、演じているアナ・ジラルドは1988年生まれの俳優で現在35歳。このテーマの映画が若さに高い価値を置くここ日本で映画化されていたとしたら、もっと主人公の年齢層は低かったかもしれない。ほかにも常にカツラを被るSM女王、ウブな印象の女性などそこにいるセックスワーカーたちはバラエティに富んでいる。映画では客を相手にする場面も確かに多いが、個人個人で携帯電話見つめている無音に浸された娼館のルーセルとは対照的な、ロッシ・デ・パルマ手料理を振る舞いながら女性たちが思い思いに会話を交わすラ・メゾンの温かな待機部屋の場面こそを、本作は愛情深く描く。エマは同僚の女性たちを執筆のために観察対象にもしていながら、同時に慈しみの感情を抱いているようにも見える。そこには、同じ境遇を介した女たちの緩やかでかけがえのないつながりがある。

もともと2週間のみの予定だった取材は、2年もの月日となった。エマにとって夜の世界はそれほどに引力があったのだろう。映画はコインランドリーでぐるぐると回る洗濯機に飲み込まれてゆくように、娼館での仕事にのめり込むエマを映しだす。ボンヌフォン監督は観客の代弁者として、原作にはいなかったエマの妹をこの映画のために創作した。妹は姉がセックスワークの仕事をすることに懸念を露わにし、そこには取材目的以外の欲望があるのではないかと投げかける。実際、エマの動機は1つではなく、欲望は娼館で過ごすにつれて、どんどん枝分かれてしてゆくようでもある。劇中のエマがどう仕事と関わっているかをつぶさに見ていれば、恐らくそれはある種本質を突いているように思えてくるだろう。

■“娼婦”か“処女”…極端な二項対立によって切り裂かれてきた女性のイメージ

女性の身体を悦ばせる技術を学びにきた客に対して、エマは心から親身になって調教を施す。「レズビアンではない」と話す珍しい女性客とは、官能的でリッチな時間を過ごす。娼館での時間は、エマにとって決してお金や調査のための身を犠牲にするものではない。しかしもちろん、セックスワークの世界に限らない、私たちとつねに薄皮一枚で隣合わせにある危険もエマ・ベッケル、そしてボンヌフォン監督は過小評価していない。前半パートにあたるカルーセルの場面での最後も、後半パートにあたるラ・メゾンの場面の最後も、共に暴力によって結ばれている。カルーセルのバーカウンターや恋人と過ごす公園などでふいに画面に招き入れられる人間の形をしたオブジェは、セックスワークがある部分においては女性の身体を商業的にモノ化していることを絶えず観客に思い起こさせるだろう。

凡庸極まりない価値観は女性を“娼婦”と“処女”に分け、女性のイメージはそうした極端な二項対立によって切り裂かれてきた。しかし男性目線は“娼婦”と“処女”を別々の女性に割り振って扱うだけではない。例えばマーシャル・ハースコヴィッツ監督作『娼婦ベロニカ』(98)の、母親から教養を身につけるよう教育されて詩人でもあった高級娼婦ベロニカフランコが、その聡明さと容姿の美しさによって男性たちを虜にしてゆくように、知性と性的魅力を兼ね備えた女もまた、ある種のフェティシズムの対象になりうるかもしれない。女性のイメージの二分化は知性と性的魅力をそれぞれかけ離れたものに位置付けるがゆえに、あるいは性的魅力の迸るような女に知性などあるはずがないというバイアスがあるゆえに、それらを同居させる女性はフェティッシュ化されもする。最終的に魔女裁判にかけられてしまうベロニカとは違い、現代に生きるエマは無論、魔女扱いされることはないが、作家でもあり娼婦でもあるという二重のラベリングを背負う彼女がメディアから消費の的にされるのは想像に難くない。

■娼婦になる理由には欲望や動機の複雑なモザイクがある

妹が「作家じゃなくて娼婦のレッテルを貼られる」とエマを諭すように、“作家”よりも“娼婦”のほうがよりセンセーショナルで引きがあるために、恐らくエマはその後も娼婦の作家として名指され続ける可能性が高い。それでもエマは、魅惑的な娼館の世界へと足を踏み入れるのを止めることなどできなかったのだろう。女性がセックスワーカーになる理由には欲望や動機の複雑なモザイクがあるのだというメッセージを、『ラ・メゾン 小説家と娼婦』は伏在させている。エマは“同情”だけでなく、「自分で選んだ人の話も聞くべき」と妹と同様に心配し続ける親友に話す。その言葉はそのままきっと、この映画の存在理由でもあるかもしれない。重要なのは外にいる人間が勝手になにかを語るのではなく、当事者たる彼女たちの声に耳を傾けることなのだから。『ラ・メゾン 小説家と娼婦』はエマのこちら側を見つめるカメラ目線によって始まり、カメラ目線によって終わる。それはこの話が果たして“バカなこと”かどうかを、挑発的に私たちに問いかける。

文/児玉 美月

セックスワーカーとして娼館を潜入調査…センセーショナルなテーマの裏側にある、作品が投げかけるメッセージとは?/[c] RADAR FILMS - REZO PRODUCTIONS - UMEDIA - CARL HIRSCHMANN - STELLA MARIS PICTURES