第一次世界大戦に参戦した日本は国際的地位を高め、戦後のヴェルサイユ体制・ワシントン体制を受容する協調外交を展開しました。どのような戦後処理がなされたのか、見ていきましょう。今回は、『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏が、第一次世界大戦期の日本の動向について解説します。

第一次世界大戦の勃発

19世紀末以降、列強は帝国主義巨大資本が国家権力と結合し、軍事力による植民地・権益の獲得を国家間で競う)を展開し、世界進出を強めたドイツと「大英帝国イギリスとの対抗を軸に、ドイツオーストリア(墺)・イタリア三国同盟と、イギリスロシアフランス三国協商が対立しました。

こうしたなか、オーストリアバルカン半島へ拡張すると、親露国のセルビアに危機感が広まり、オーストリア領となったサライェヴォで、セルビア人の民族主義者がオーストリア帝位継承者を殺害しましたサライェヴォ事件)。

これが契機となって、同盟国(三国同盟、イタリアは連合国へ)と連合国(三国協商)との間で第一次世界大戦(1914~18)が勃発し、一国の政治・経済を戦争に振り向け、全国民を様々な形で動員する総力戦が展開されました。

日本はなぜ第一次世界大戦に参戦したのか?

第2次大隈内閣〕の加藤高明外相は「日英同盟を口実に参戦し、東アジアドイツ権益を奪取して日本の国際的地位を高める」という野心的な考えを主張して日本の参戦を主導し、日本は山東半島の青島を占領して山東省ドイツ権益を接収し、赤道以北のドイツ南洋諸島(中部太平洋)も占領しました。

当時の中国では、辛亥革命(1911~12)で中華民国が成立して清が滅亡したのち、軍閥の袁世凱が北京政府の中心となりました(革命を主導した孫文は日本に亡命)。

加藤高明外相は袁世凱政権へ二十一カ条の要求(1915)を突きつけ、山東省ドイツ権益の継承や、旅順・大連の租借期限と南満州鉄道の経営期限の99年間延長(日露戦争で獲得した南満州権益の強化)などを承認させました。

しかし、中国国民の反発が高まると、〔寺内内閣〕は軍事進出を改め、軍閥の段祺瑞政権に西原借款を与えて権益確保を図りました。

アメリカ連合国側で参戦すると、〔寺内内閣〕石井・ランシング協定(1917)を結び(アメリカは日本の中国での特殊利益を認め、中国の門戸開放機会均等[アメリカの対中国方針]を確認)、日米関係を調整しました。労働者・兵士によるロシア革命(1917)で帝政ロシアが崩壊しソヴィエト政権が誕生したことは、世界を揺るがせました。

社会主義国家の出現に対し、連合国が武力干渉を決定すると、日本は日露協約消滅後の満州権益維持も図り、この戦争に参加しました(シベリア出兵 1918~22)。しかし、日本は連合国の撤退後も出兵を継続し、領土的野心を疑われました。

第一次世界大戦の戦後処理は、どのように展開したのか?

ドイツが中心の同盟国が敗北すると、勝利した連合国の「五大国」(米・英・日・仏・伊)がパリ講和会議1919)をリードし、ヨーロッパの国際秩序が形成されました(ヴェルサイユ体制)。〔原内閣〕は、元老の西園寺公望(元首相・元政友会総裁)を全権としました。

ヴェルサイユ条約1919)で、日本は山東省の旧ドイツ権益を継承し(二十一カ条要求の規定の承認)、赤道以北の旧ドイツ南洋諸島委任統治権国際連盟の依頼で統治)が認められました。

一方、「各民族は自らの政体を決定できる」という民族自決の潮流が及んだ朝鮮では、三・一独立運動1919)が拡大しました。日本はこれを弾圧しましたが、武断政治から文化政治へ転換し、憲兵警察制度の廃止などを実行しました。

また、連合国として参戦した中国では、山東省権益の日本継承に対する反発が強く、その返還などを求める五・四運動1919)が拡大しました。

アメリカ大統領ウィルソンの提唱に基づく国際平和機関として、国際連盟(1920)が設立されました(本部はジュネーブ)。

「五大国」の一つである日本は、イギリスフランスイタリアとともに常任理事国となりましたが、アメリカは上院の反対で参加しませんでしたドイツやソ連は、のちに参加)。

太平洋問題・中国問題…どのような条約が結ばれたのか

パリ講和会議後に開かれたワシントン会議(1921~22)をアメリカがリードし、アジア・太平洋の国際秩序が形成されました(ワシントン体制)。〔高橋内閣〕は、海相の加藤友三郎を全権としました。

米・英・日・仏の四カ国条約では、太平洋地域での勢力の現状維持が定められ、軍事同盟が不要となって日英同盟が廃棄されました。

米・英・日・仏・伊・中・ベルギーオランダポルトガル九ヵ国条約では、中国の主権尊重や門戸開放機会均等が定められ(アメリカの対中方針を共有)、石井・ランシング協定が廃棄されました。また、日中間交渉で山東省の返還を決めました

海軍軍縮問題における条約内容

米・英・日・仏・伊のワシントン海軍軍縮条約では、艦隊の中心となる主力艦を10年間建造禁止とし、日本の保有量を対アメリカで6割、対イギリスで6割と定めました。

当時の日本は戦後恐慌に陥り、財政悪化で軍拡が困難なため、米・英・日の建艦競争を終わらせたいアメリカの意向を受け入れたのです。

こうして日本の中国・太平洋方面への政治的・軍事的進出は抑制されましたが、加藤友三郎海相が首相となった〔加藤友三郎内閣〕で海軍軍縮とシベリア撤兵が実行され、ワシントン体制を受容する協調外交の基礎が築かれました。

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)