(町田 明広:歴史学者)

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「幕末維新史探訪2024」のスタート

 JBpressでの連載も、足かけ4年目となった。これも読者の皆さんからご支持いただいた賜である。年末には、連載を基にした『人物から読む幕末史の最前線』(集英社インターナショナル)を刊行することが叶った。心からの感謝を申し上げたい。

 さて、令和6年(2024)がスタートした。昨年の「幕末維新史探訪2023」に引き続き、今回からは「幕末維新史探訪2024」をスタートさせたい。本年も、どうかよろしくお願いいたします。

 ところで、今年は幕末維新史の中でも大激動の年であった元治元年(1864)から、ちょうど160年という節目に当たる。160年前、ようやく始まった参与会議があっけなく瓦解し、一橋慶喜が禁裏守衛総督・摂海防御指揮に就任した。さらに、慶喜は京都守護職の会津藩主松平容保、京都所司代の桑名藩主松平定敬と一会桑勢力を形成し、14代将軍徳川家茂の名代として、関白二条斉敬と朝彦親王とともに中央政局を統括していた。

 前年の文久3年(1863)に惹起した八月十八日政変によって、京都から追放されていた長州藩は復権を図って率兵上京し、禁門の変を起こしたが、薩摩藩・会津藩を主力とする官軍(幕府軍)によって撃退された。しかも、四国艦隊下関砲撃事件でも大敗し、まさに内憂外患の状態に陥ったのだ。さらに、第一次長州征伐へと発展し、長州藩は存亡の危機を迎えることになるが、このあたりは、いずれ「幕末維新史探訪2024」の中で取り上げたい。

グローバル幕末史の重要性

 ところで、幕末維新史を語るには、国内の政争だけではなく、グローバルな視点で捉えることが必要である。幕末はペリー来航(嘉永6年、1853)から始まったとするのが一般的であるが、これ以降、鎖国から開国へ、即時攘夷から未来攘夷へと対外方針・政略をめぐって、政争が繰り広げられている。つまり、欧米列強との外交史は欠くことが出来ない幕末維新史の重要なパーツなのだ。

 今回は、幕末日本に影響を与えた欧米列強、具体的にはアメリカ、イギリスフランスロシアオランダに焦点をあて、日本とどのような関係があったのか、また、幕末維新史にどのような影響を与えたのか、5回にわたって詳しく見ていきたい。今回はその前段として、ペリー来航以前のヨーロッパと日本について、若干の説明を行いたい。

産業革命とヨーロッパの変化

 18世紀のイギリスから始まった産業革命は、その後は西ヨーロッパ諸国、アメリカ、ロシアなどに拡大し、欧米諸国を農業文明から工業文明の社会へと移行させた。産業革命は綿工業から始まり、その発展は鉄工業、石炭業、機械工業といった関連する諸産業の発展を促し、石炭と鉄の時代を到来させたのだ。

 1830年以降になると、機械による大量生産体制が確立した。そして、産業革命の技術革新の総仕上げとして鉄道が出現した。さらに、帆船から蒸気船への転換は、自国内だけでなく、世界に進出する足掛かりとなった。

 産業革命によって、大量生産された製品はまずは自国内で消費されたが、直ぐに飽和状態となり、次の市場を求めることになる。また、産業革命の進展は原材料の高騰や枯渇をもたらし、労働力の確保も課題となった。その補給先も、自国外で確保しなければならない循環に陥ってしまったのだ。

産業革命後のイギリスによる世界進出

 最初に産業革命を成し遂げたイギリスは、ヨーロッパ大陸に市場を求め、さらにはアメリカ大陸に、そして、その矛先はアフリカオセアニア、アジア諸国に向かうことになる。原材料の確保も同時に企図されるが、これも欧米以外に依存せざるを得なかった。

 イギリス以外でも、フランスドイツ、アメリカ、ロシアなどが順次に産業革命を進展させ、資本主義国家群を形成し、欧米全体が自国外、特にアジアに市場などを求めて進出することになる。その際には製品だけでなく軍隊も派遣し、暴力を伴った支配化、つまり後進国植民地化を実行することを伴った。いわゆる、帝国主義の時代の先駆けである。

 イギリスを例にすると、当初は東インド会社を国策会社として設立し、アジアに対する貿易、植民地経営を積極化させた。インドでは、イギリス植民地化を阻止すべく1857年にインド大反乱(セポイの乱)が起こった。しかし、圧倒的な軍事力の差は如何ともし難く、鎮圧されてしまったのだ。翌1858年にはムガル帝国が滅び、イギリスが直接インド全土を支配し始めた。

 19世紀に入ると自由商人の活動は活性化し、禁制を犯して清(中国)にインド産のアヘンを密輸するに至った。アヘンの流入を阻止しようとする清国と、密輸を継続しようとするイギリスとの間にアヘン戦争が1840年に勃発した。清はイギリスの近代兵器に圧倒され、局地戦とはいえ惨敗し、その後の欧米列強による侵略の起点となった。そして、中国の先にある日本に対し、いよいよ欧米列強が開国を求めることになったのだ。

ウエスタンインパクトの開始

 一方で日本は、当時は江戸時代の後半を迎えており、長崎などの例外はありながらも、鎖国体制を採っていた。しかし、18世紀後半からロシアが北方から南下を始め、危機意識が高まっていた。江戸幕府は祖法である鎖国の順守を貫こうとしたが、アヘン戦争による清の大敗は深刻な衝撃を伴い、避戦を大前提にした外交が展開された。

 幕府はそれまでの外国船打払令を改め、天保の薪水給与令を発令するに至った。つまり、外国船とみれば躊躇なく打ち払えとした無二念打払政策から、哀れみ慈しんで、物を与えたりする撫恤政策への転換を図ったのだ。

 それはさておき、ロシアに続き、イギリスフランス、アメリカが日本に接近し、和親と通商を求め始めた。幕府は祖法の鎖国を盾にして、その要求を拒否し続け、列強もそれに従った。しかし、中国経営に専心するイギリスを出し抜き、アメリカから不退転の決意を持つペリーが開国の使者として、来航することになる。

 次回は、日本を鎖国から開国に導いたアメリカにフォーカスして、日本との関係を紐解いていこう。

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