昨年末の「NHK紅白歌合戦」で特別企画として16年ぶりに出場し、往年の大ヒット曲「ルビーの指環」を歌唱した寺尾聰。コーナー司会を務めた黒柳徹子と音楽番組「ザ・ベストテン」(TBS系)時代を振り返り、渋く歌い上げるその姿は、中高年のハートをグッとつかんだことだろう。

 当時、寺尾は石原裕次郎が代表を務める石原プロに籍を置き、同社制作のテレビドラマ大都会」や「西部警察」などに出演していた。そんな寺尾が「ルビーの指環」を収録したデモテープを、自ら東芝EMIに持ち込んだのは、1980年だ。テープを聴いたディレクターは「これは間違いなく売れる」と直感。歌詞を松本隆に依頼すると、その予感通り、同曲は発売後にじわじわとヒットチャートを上り、やがてミリオンヒットとなったのである。

 しかし、この大ヒットによって、寺尾の運命は大きく動くことになる。その年の暮れの紅白歌合戦への出場に端を発した、石原プロからの破門騒動である。

 寺尾は同年のオリコンをはじめ、「ザ・ベストテン」でも12週間連続1位という快挙を成し遂げた。レコード大賞に加え、作詞、作曲、編曲賞と4冠を獲得。その勢いのまま年末の紅白出場で有終の美を飾る、はずだった。ところが12月30日、寺尾が突然、紅白のリハーサルドタキャンし、上を下への大騒ぎになったのである。ベテラン芸能記者が言う。

「通常、紅白では29日から31日の3日間をリハーサルと本番として、出演者やスタッフは3日間、NHKに拘束されることになります。29日は基本、顔合わせと記者会見のみ。そのため、寺尾がNHKサイドに『みんな忙しいのに、それだけのために集められるのは理不尽じゃないのか』とクレームを入れ、30日のリハを欠席してしまったんです」

 むろん、NHKが態度を硬化させたことは言うまでもない。NHKサイドは「だったら本番には出ていただかなくて結構」と、東芝EMIに通達。だが同社としては、最後に寺尾を紅白に出演させ、1年を締めくくりたい。結局、NHK側に謝罪し、紅白出場の運びとなったのだが、それで済ませたのでは、今度は石原プロのメンツが立たない。

 そこで「けじめ」として、寺尾の破門が決定したのである。1982年5月10日、記者会見を開いた石原プロの小林正彦専務(当時)は裕次郎の心情を代弁し、次のように言った。

泣いて馬謖を斬る。かわいい子には旅をさせろ。アーティストとして出来上がった彼は、外に出してやった方がもっと大きくなる。石原プロはこのたび、寺尾聰を勘当することが決まりました」

 実は「ルビーの指環」を最初に聴いた小林専務は「こんなお経みたいな歌、売れないんじゃないか」と難色を示したとされるが、それを裕次郎が「いいんじゃないか」と推したことで、レコーディングが実現したという。つまりは裕次郎がいなければ世に出ることがなかった、お蔵入り寸前の名曲だったのである。

(山川敦司)

1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。

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