文=鷹橋 忍 写真=フォトライブラリー

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 2024年の大河ドラマ『光る君へ』が始まった。

 主人公・吉高由里子演じる紫式部まひろ)は『源氏物語』の作者として著名であるが、その生涯というと、あまり知られてはいないのではないだろうか。

 そこで今回は、紫式部の半生を取り上げたいと思う。

 

紫式部は「藤式部」だった?

 紫式部の名で知られているが、これは後世の通称である(ここでは、紫式部と表記)。

 正式な呼称は、「藤原為時紫式部の父)の女」で(倉本一宏『紫式部藤原道長』)、宮中に出仕していたときの女房名を「藤式部」というが、本名は明らかでない。

 生年も、天禄元年(970)、天延元年(973)年、天元元年(978)など諸説があり、これもよくわかっていない(ここでは、とりあえず、紫式部の年齢は天延元年説で計算する)。

 紫式部が生まれ育ったのは、父方の曾祖父にあたる藤原兼輔(877~933)が残した、堤第(つつみてい/京都市上京区、梨木神社から廬山寺にかけての地)の半分の敷地であったとされる(倉本一宏『紫式部藤原道長』)。藤原兼輔に関しては後述する。

 

藤原北家とは?

 紫式部の父は、岸谷五朗が演じる藤原為時、母は、「藤原為信の女」(ドラマでは、国仲涼子さんが演じる「ちやは」)といい、父母ともに藤原北家に属する。

 藤原氏は、「乙巳の変」で蘇我本宗家打倒の功績を挙げた中臣鎌足(614~669)が、天智天皇8年(669)に、天智天皇から藤原姓を授かったことから始まるとされる。

 その後、藤原姓は文武天皇2年(698)8月に、鎌足の子・藤原不比等(659~720)の家系のみが継承することとなった。

 藤原不比等には、「藤原四子(四兄弟)」と呼ばれる4人の息子がおり、それぞれが、「南家」、「北家」、「式家」、「京家」の祖となった。これを「藤原四家」という。

 北家は、不比等の二男・藤原房前(681~737)を祖とする家で、北家の「北」は、邸宅の位置に由来する。

 藤原氏嫡流は不比等の長男・藤原武智麻呂(680~737)を祖とする南家であったが、南家が衰退すると、北家が藤原氏本流となって興隆した。

 北家の台頭のもととなったのは、藤原冬嗣(775~826)である。

 冬嗣は嵯峨天皇のもと、最初の蔵人頭(天皇の側近くに仕える、天皇の秘書官長)に任じられた。

 冬嗣の子・藤原良房(804~872)は人臣として初の摂政に、良房の養子の(836~891)は摂政、関白となり、摂関政治の礎を築いた。

紫式部の父・藤原為時

 紫式部の父・藤原為時は、良房の異母弟・藤原良門の系統だ。

 良門の子・藤原利基の六男が、前述した紫式部の曾祖父・藤原兼輔となる。

 兼輔は、従三位権中納言に昇った公卿で、賀茂川堤に邸宅があったことから「堤中納言」と呼ばれた。

 歌人としても知られ、『百人一首』(27番)「みかの原 わきて流るる 泉川 いつみきとてか 恋しかるらん」の作者であり、三十六歌仙の一人であった。

 紫式部は『源氏物語』で兼輔の歌を、たびたび題材としいている。

 兼輔以外の歴代は公卿になっておらず、兼輔の長男・藤原雅正は従五位下にとどまり、受領(現在の県知事のような職 川村裕子『はじめての王朝文化辞典』)を歴任している。

 雅正の三男が、紫式部の父・藤原為時である。

 為時は、文章生(もんじょうしょう)出身の学者だった。

 

母の死

 紫式部の母は、藤原基経の同母弟・藤原清経の曾孫である藤原為信の娘である。本名は不明だ。

 紫式部の母は、紫式部以外にも、紫式部の姉と、弟(兄とも)の高杉真宙が演じる藤原惟規の一男二女を産んだが、おそらく惟規を産んで間もなく、亡くなってしまったようだ。

 紫式部の日記には、幼い頃の父との思い出は綴られていても、母のことは記されていないため、母の記憶がないほど幼い時に、死別したと考えられている(今井源衛『人物叢書 紫式部』)。

 その後、父・為時は再婚し、後妻との間に、惟通、定暹、女子の三人の子をもうけた。

 だが、為時が後妻と自邸で暮らした様子がないので、紫式部たちと後妻は同居せず、為時が後妻のもとに通っていたと思われる。

 紫式部ら三人の姉弟たちは、母親のいない家庭で、幼少期を過ごしたのだろう。

父・為時、10年間、無官に

 紫式部の父・為時は永観2年(984)、花山天皇が即位すると、式部丞に任じられた。

 紫式部の「式部」は、このときの為時の官名に由来するといわれる(関幸彦『藤原道長紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。

 為時は六位蔵人に補任され、花山朝において務めを果たしていたが、寛和2年(986)の花山の出家により、花山朝に終止符が打たれると(寛和の変)、為時も停任の憂き目を見た。

 以後、為時は10年もの間、散位(位階のみで官職を持たない)のままであった。

 この頃のことなのか、紫式部の宮仕えの見聞感想録である『紫式部日記』の、五三「日本紀の御局のあだ名など」には、紫式部少女時代の有名な逸話が記されている。

紫式部日記』によれば、紫式部の弟・藤原惟規がまだ子どものころ、漢籍(中国の書物)を読んでいたとき、紫式部はそばで聞き習っていただけなのに、不思議なほど習得が早かったため、父・為時は、紫式部が、「男子でなかったことが、私の不幸だ」といつも嘆いていたという(宮崎莊平『新版 紫支部日記 全訳注』)。

 紫式部のこの漢籍の知識は、のちに『源氏物語』に生かされることになる。

結婚と夫の死

 長徳2年(996)、父・藤原為時は越前守に任じられ、ようやく長い無官の時代に幕を下ろした。

 紫式部は父と共に、越前国に下向した。紫式部は、24歳前後だったと思われる。

 紫式部らは越前国府(福井県越前市)の廓内ある国主館に起居したという(角田文衞『紫式部伝――その生涯と『源氏物語』――』)。

 翌長徳3年(997)、紫式部に都から求婚の書状が送られてきた。

 送り主は、佐々木蔵之介演じる藤原宣孝(生年不詳~1001)である。

 宣孝は藤原北家高藤流に属し、紫式部とは又従兄妹の関係にあった。優秀な官人であり、父・為時の元同僚である。確認されているだけでも、すでに三人の女性との間に四人の息子をもうけていた。

 宣孝の生年は不明だが、長男の藤原隆光が紫式部と同じくらいの年齢であることから、紫式部より20歳くらい年長であったと考えられている。

 紫式部は父を残して帰京し、翌長徳4年(998)の冬に、この藤原宣孝と結婚している。

 しかし、紫式部は嫡妻ではなかった。宣孝は嫡妻と暮らし、紫式部のもとに通っていたという。

 紫式部と宣孝の間には、長保元年(999)頃には、賢子(けんし)という女子が誕生している。

 ところが、長保3年(10014月25日、宣孝は死去してしまう。

 紫式部、29歳の頃であった。

 紫式部が『源氏物語』を書き始めたのは、宣孝の死後、間もない時期からだったともいわれる。

【紫式部ゆかりの地】

紫式部公園

 紫式部が越前で暮らしたことを記念して、造成された。福井県越前市東千福町にある。

 園内には十二単を纏った金色の紫式部像や、紫式部歌碑が建ち、時代考証のもとに造られた寝殿造りの庭園が、平安時代の風情を醸し出している。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  『鎌倉殿の13人』主人公・北条義時の前半生と、源頼朝との関係

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紫式部 土佐光起画 石山寺蔵