仏教というと難しいものとイメージする人は多いだろう。けれど、お盆とお彼岸はお墓参り、喪中のときは年賀状を出さないなど、仏教行事や習慣は私たちの日常の中で身近に接している。また、「我慢」「自由」といった普段当たり前に使っている言葉も実は仏教語だ。

◾️仏教から学ぶ「生きづらい時代」への対処法

『仏にゃんのふわもこやさしい仏教の教え』(Jam著、枡野俊明監、笠間書院刊)では、漫画家・イラストレーター・ゲームグラフィックデザイナーのJam氏の描く猫の「仏(ほと)にゃん」が、仏教語由来の身近な言葉から仏教の教えを解説。人間関係から自分自身、世の中まで、生きづらいこの世の悩みを解決し、身も心も軽くなる67の言葉とヒントを紹介する。

今は耐え忍ぶ意味などで使われている「我慢」という言葉。もとは高慢なことや我を張ること、我執など、自分の意見に固執することを言う。本来は仏教語で「自分をえらいと思い込み、他を軽んじて心おごること、慢心すること」で煩悩のひとつだ。

「我慢」はつらいものだが、もとの意味を知ると「我慢ばかりしなくてもいいかな?」と思えてくるもの。一人で耐え忍ぶことは、「周りに頼らない、一人でなんとかできる」という慢心かもしれない。耐えることで我を張るのをやめたら、少し気楽になれるはずだ。

「自由」も実は仏教語だ。古代インドの言語である梵語の「スヴァヤン」の訳語で「他に依存せず、それ自体で存在すること」を意味する。仏教による「自由」とは、「自らに由る」ことで、自分以外のものの影響を受けず、自らを拠りどころにし、自分の本心に沿って生きること。

今では「自由」は思いのまま好き勝手に生きられるような意味に使われているが、本当の自由は何にも依存することなく、心を自在にコントロールできる生き方ということを仏教語から学ぶことができる。

「愚痴」は現在では「愚痴をこぼす、愚痴る」のように、言っても仕方のないことを嘆いて文句を言ったり、日常の不平不満を話すことを意味する。仏教では、煩悩に振り回された愚かな状態や物事の真実を正しく捉えられていない状態のことを言う。「愚癡」とも書く。

「愚痴」は仏道を歩む者にとっても根強い煩悩である「貧・瞋・癡」の三毒煩悩の一つ。三毒は「貪欲は欲望、瞋恚は怒り、愚痴は無知」を表している。

本書を読むと、日常生活で使っている多くの言葉が、仏教に由来していることがわかる。また、「我慢」のように、もとの仏教語としての意味から現代では意味が少し違うものもある。本書では気持ちを楽に切り替えるのに役立ちそうな仏教語も多く紹介されている。実はよく使っている仏教語から、より仏教を身近に感じることができるはずだ。

(T・N/新刊JP編集部)

意外に多い?日常会話の中の仏教用語(*画像はイメージです)