(歴史家:乃至政彦)

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天文五年の林泉寺と上杉謙信

 天文5年(1536)7歳(数え年。現在なら5歳ぐらい)になった上杉謙信こと長尾虎千代は、同年3月に林泉寺の住職・天室光育和尚のもとに預けられたという。

 インターネット百科事典などでは、そこで僧侶となるため、中学生ぐらいの年まで過ごしたと言われている。だが、史料上では同年夏に林泉寺を出て元服しており、虎千代の林泉寺入りは、僧侶になるためではなかった。上級武士としての教育を施すため、禅宗の寺院に預けられたと考えるべきだろう。

 虎千代が林泉寺でどのように過ごしたかは同時代の史料がないが、江戸時代に作られた史料では、用兵、武技、芸学の習得に力を入れていたと伝わっている。悪ガキ共を率いて合戦ごっこをしたともいう。

 信頼できそうなところでは、『甲陽軍鑑』品第54に、天正7年(1579)、謙信の跡目を継いだ上杉景勝武田勝頼に「謙信もてあそび、城ぜめのあやつり・からくり物、敵みかたの人数ある一間(約1.8メートル)四方の城がたち、」を贈ったことが記されている。

 大人になるまで使っていなかった可能性も否定できないが、幼い頃の虎千代が巨大な戦闘シミュレーションゲームの模型を玩具として遊んでいたと見ることもできよう。謙信は若くして「代々の軍刀」を振るい、大軍を打ち負かしてきた。そうした用兵の妙技は幼い頃から鍛えられたに違いない。

 幼い虎千代は、兄の長尾晴景の片腕となる将来を嘱望され、実父の長尾為景に望まれて、大将となるための教育を授かったと考えるのが自然であろう。

 林泉寺を出た虎千代を、人々は「虎千代殿の軍配はとても優れていて非凡である。後に大功をなし、家門を起こす器量である」と感嘆した。兄である晴景と父である為景は、これを大いに歓喜したという(『謙信公御書集』『謙信公御年譜』)。

上杉謙信の下ネタ笑い話

 ところで林泉寺時代の虎千代には、おそらく実話ではないちょっとした笑い話がある。

 だが、「聖なる不犯の将」たるイメージからかけ離れている下ネタ話であるためか、『名将言行録』にも採用されておらず、この逸話を紹介する作家や研究者はおられない。

 せっかくなので、ここに紹介しよう。

 為景に送られて虎千代が寺に入ると、林泉寺の和尚が寺内を案内することになった。

 すると虎千代が道すがらに、壁のふくらみを撫でた。

「和尚、和尚。寺に似合わぬ壁かな。孕みたり──」

 おや、アーニャより少し年上ぐらいの年齢で、随分と大人じみたことを言うものだと、和尚も舌を巻く思いをしたことだろう。

 しかし、さすがに名僧を謳われる天室光育(てんしつこういく)、堂々と答えた。

「──御手をつけられましたゆえ」

 虎千代が触れたからだ、と返したわけである。

 無責任に思いつきの言葉や行動をすると、大変なことが起きるのだよと暗に諭しているのだろう。

 爆笑するほどの逸話ではないかもしれないが、謙信にしては珍しい逸話である。

 もう一つある。

 こちらは下ネタではないが、強く笑えるタイプのものではないので、やはりほとんどの人が知らない逸話だ。

栗と九里の掛け合い

 ある日、和尚は虎千代に栗を与え、「くりくりと剥きなさい」と告げた。

 すると虎千代は、

「十里十里とならないのか」

 と尋ねた。

 和尚は、

「ごりごりと召しあがれば、十里になります」

 と答えたという──。

 簡単に説明すると、虎千代は、たまたま和尚の言うことが、栗と9里9里でダジャレになっていることを嬉しげに伝えるつもりで「十里十里(じゅうりじゅうり)じゃないんだね?」と言ったのだろう。

 和尚はこれを五里五里と食べたら、その音で「5里+5里=10里」になると応じたと言う、他愛もない会話だ。

 以上は、『鶴城叢談』に伝えられるものである。

中止になった加地への養子縁組

 なお、虎千代が林泉寺にいる間、父の長尾為景は、仇敵の上条定憲との合戦で、これに与した宇佐美一類・柿崎以下ことごとくを散々に撃ち破り、定憲本人をも死に追いやった。

 この8月、為景は元服させた虎千代に「平三景虎」の名乗りを与え、越後揚北衆の加地春綱のもとへ送り出し、「加地名字に御定」になそうとする(『藤戸明神由来』)。

 越後統一を果たした今、不穏分子の多い越後奥郡を安定させるためである。

 ところが景虎がこの縁組を拒んだため、養子計画は中止されることになったという。ただ、当時の縁組は子どもの言い分ではなく、親の政略によって決定されるのが普通だったので、景虎が養子に出されなくなった理由は、何か別の背景があったものと推測される。

 ちなみに当時の1里は、今で言う545〜655メートルの距離になるが、長尾家居城の春日山城近くにある林泉寺から加地氏の拠点までの距離は約160キロメートルになる。

 為景もさすがに250里ほどもある遠方に、将器ある我が子を送ることに迷いがあったはずだ。後継者となる晴景の実力は心許なく、才覚ある弟の補佐が必要であった。

 虎千代はそんな為景の迷いなど知ることなく、栗をくりくりと剥き、ゴリゴリと食べて、笑っていたことだろう。

 天室光育もこの先虎千代に待ち受ける運命が、必ずしも穏やかでないことを予見しながら、今の笑顔を大切にしようと冗談に冗談で応じていたのかもしれない。

 

【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。

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