大戦景気によって本格的な工業国となり、自由主義・社会主義の潮流が外国から流入したことで社会運動が盛んになった日本。戦後の恐慌により、その動きはさらに大きくなり、「大正デモクラシー」の思潮が広がっていきました。『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏が、1910年から1920年代にかけての社会情勢について解説します。

大戦でなぜ好景気となるのか?

大戦景気(1915~19)は、海運業の活況から始まりました。総力戦により物資輸送が増え、世界的な船舶不足から日本船舶の利用が激増したのです。

そして、日本の海運業向けに造船業が発達し、急成長した海運業・造船業に「船成金」が登場しました。

さらに、船舶原料の鋼材需要が増え、鉄鋼業も発達しました(満鉄の鞍山製鉄所の設立など)。

総力戦でヨーロッパは軍需生産優先となり、ヨーロッパ製品のアジア市場への流入が減ると、代わって日本製品がアジア市場を独占しました。アジアへの綿織物輸出が拡大して綿織物業が成長し、紡績業では紡績会社が中国に工場を設立しました(在華紡)。

そして、ヨーロッパへの軍需品輸出で戦争景気となったアメリカへの生糸輸出が拡大し、製糸業が成長しました。

重化学工業では、造船業・鉄鋼業の成長に加え、敵国ドイツからの輸入途絶で国産化が進んで化学工業が勃興し、さらに連合国への軍需品輸出で機械工業が発達しました。

その他、電力事業が展開し(工場用動力で電力が蒸気力を上回る)、水力発電による福島県猪苗代発電所・東京間の長距離送電が始まりました。

貿易面では、輸出の伸張で貿易収支が黒字輸出超過)となり(1915~18)、海運業のサービス輸出の増加でサービス収支も黒字(海外からの受取りが海外への支払いを上回る)になりました。

こうして、日本は債務国から債権国へ転換しました。

一方、欧米の金本位制停止を受けて日本も金輸出禁止を実施し(1917)、これから約10年以上、日本は為替相場が不安定な状態となりました

大戦景気は日本の都市化をもたらした

1910年代後半に工業生産額農業生産額を上回り、日本は工業国となりました。そして、特に重化学工業に従事する男性労働者を中心に、工場労働者が著しく増加し、企業や工場が設立された都市部に人口が集中して、都市化が進行していきました

しかし、賃金は上昇したものの、好景気による物価上昇の幅はそれより大きく、インフレによって賃金は実質的に低下しました。

大戦後、日本の経済状況は悪化

大戦終結後、ヨーロッパは復興し、さらにアジア市場へ復帰しました。日本製品は今までのようには海外で売れなくなり、貿易収支は赤字(輸入超過)となりました。

生産過剰から株価が暴落して戦後恐慌(1920)が発生すると、企業の倒産や工場の操業短縮が増加し、成金の没落も相次ぎました。

こののち、1920年代の日本経済は恐慌が連続する状況(反復恐慌)となりました

「デモクラシー思潮」の高まり

大正時代国民の自由拡大や政治参加の要求が高まりました。その思潮を支えたのは、憲法学者美濃部達吉天皇機関説と、政治学者吉野作造民本主義です。

美濃部は、近代国家において統治権は法人としての国家に属し、天皇は国家の最高機関として憲法に従い統治権を行使する、という学説を唱え、統治権は神聖不可侵の天皇が無制限に保持する、という天皇主権説を唱えた上杉慎吉と論争しました。天皇を近代的な立憲君主と位置づけ、その無制限な権力行使を否定した美濃部説は、憲法解釈の主流となりました。

吉野は、“democracy”の訳語として、国民主権を意味する「民主主義」(これは天皇主権の憲法規定に抵触)ではなく、民衆本位の政治を意味する「民本主義」を採用しました。そして、明治憲法の枠内で一般人民の幸福実現をめざし、その手段として普通選挙政党内閣制を実現すべきだと提唱しました。吉野の考えは雑誌『中央公論』に掲載されて大きな反響を呼び、吉野は知識人の黎明会や学生の東大新人会を組織して民本主義を広めました。

労働階級の社会運動が発展

大正初めに鈴木文治が結成した友愛会労資協調主義でしたが、戦後恐慌で解雇が拡大すると、日本労働総同盟と改称し(1921)、階級闘争主義のもとでストライキを指導しました。

また、初のメーデーも開催されました(1920)。

賀川豊彦杉山元治郎日本農民組合を結成し(1922)、小作農が寄生地主に対して小作料の引下げなどを求める小作争議を指導しました。

「冬の時代」だった社会主義運動はロシア革命の影響で復活し(日本社会主義同盟)、堺利彦山川均は革命での労働者政権樹立と平等実現をめざす日本共産党コミンテルン[国際共産党]の日本支部)を結成しました(1922)。

明治末期、平塚らいてう青鞜社を設立し、雑誌『青鞜』を発刊しました。創刊号の巻頭には「元始、女性は実に太陽であった。」で始まる有名なフレーズがあり、これは女性解放運動の始まりを告げる宣言でした。

のち、市川房枝・平塚らいてうが新婦人協会を結成し(1920)、女性の政治的権利を獲得する運動を展開しました(治安警察法第5条の改正を実現)。

さらに、市川房枝婦人参政権獲得期成同盟会を結成しました(1924)。

明治初期の身分解放令以降も続く社会的差別に対し、政府に頼らず差別撤廃を働きかける部落解放運動が起こり、全国水平社が結成されました(1922)。

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)