1958(昭和33)年の年の瀬、大火に見舞われた奄美大島に、空中からパラシュートを使って物資が投下されました。自衛隊初となった、任務としての「物量投下」は、はるばる東京から飛んできたC-46輸送機によって行われました。

離島へ一刻も早く救援物資を

2024年1月1日に起きた能登半島地震。発災から1週間が経ちましたが、被災地が急峻な山地で、かつ周囲を海に囲まれた半島であるがゆえに、一部の集落が孤立し、安否不明者の捜索もままならない状況が続いています。

そのような中、SNSなどでは自衛隊機によって孤立集落などに救援物資をパラシュート投下できないか、といった投稿が見受けられます。実は今から60年以上前、自衛隊機によって離島の被災地に救援物資が空中投下されたことがありました。

そもそも、飛行中の輸送機からパラシュートを使って物資を空中投下する「物量投下」を自衛隊が初めて任務で実施したとされるのが、日本に返還されて間もない南西諸島の奄美大島です。それは1958(昭和33)年12月29日のことで、アメリカ軍から供与された中古の輸送機C-46が用いられました。

しかし、なぜ自衛隊機は奄美大島で島民に向けて物量投下を実施する必要があったのでしょう。そこには年の瀬に奄美大島を襲った大災害が関係していたのです。

話は12月27日の深夜に始まります。奄美大島の南部にある瀬戸内町古仁屋地区の一角で火事が起こりました。

当時の奄美大島第2次世界大戦の空襲被害と1953(昭和28)年までアメリカ軍の統治下にあった影響で、住宅事情があまり芳しくありませんでした。そのような状況に、強風と異常乾燥が重なって短時間で燃え広がり、翌朝までに町役場、警察署、商店、米穀倉庫などを含む地区の大半1900棟以上が焼失。6000名近い住民が、食料も飲み水もないまま寒空に焼け出されてしまいます。

奄美での成功後も山梨や長野で実施

「空襲思わす惨状」「市街地3分の2が灰」などと新聞に大きく書かれる事態に、各所から救援の手が差し伸べられました。まず九州から、海上保安庁巡視船「いき」、海上自衛隊の警備艦「はるかぜ」および「ぶな」、駆潜艇「たか」が救援物資を積んで急行。近くにいたアメリカ海軍の大型空母「ヨークタウン」もヘリコプターで薬品と衣類を投下するなどしました。

遠く離れた東京でも、日本赤十字社キリスト教団体から提供された約7tにおよぶ救援物資の空輸を自衛隊が引き受けます。救援物資は、まず23区内の陸上自衛隊練馬駐屯地に運び込まれ、第1空挺団員の手で空中投下できるよう梱包し直したうえで、輸送機の待つアメリカ空軍立川基地(現在の陸上自衛隊立川駐屯地)へ移送されました。

そして12月29日朝、毛布や衣類、ミルクや小麦粉をぎっしり積んだ航空自衛隊C-46輸送機4機が立川を離陸。途中、宮崎県にある航空自衛隊新田原基地で空中投下に備え、後部ドアを外してから奄美大島に飛来しています。

物量投下は、奄美大島北部にあった和野飛行場の上空で実施され、無事に成功します。この時、島民らは日の丸の旗をふって歓迎したといわれます。

C-46輸送機は、翌年の1959(昭和34)年8月にも台風被害にあった山梨県長野県でも救援物資の空中投下に使われるなど、1977(昭和52)年の引退まで幾度も災害派遣に活躍しました。

なぜ被災地への物量投下やらなくなった?

このように、昭和30年代は何度か航空自衛隊C-46によって被災地への物量投下が行われています。では、なぜその後、行われなくなったのでしょうか。

筆者(リタイ屋の梅:メカミリイラストレーター)が思うに、当時はまだヘリコプターの性能が低く、自治体の救援体制も道路網の整備も進んでいなかったからこそ、このような方法を取らざるを得なかったのではないでしょうか。

またC-46による空中投下の事例は、ほぼすべて飛行場などの広大なスペースに投下しています。気象条件が悪かったという記録もありません。

それに対し今回の令和6年能登半島地震は、被災地は山がちな地形で開けた平地が少なく、気象状況についても冬の日本海側特有の悪天候という条件が重なっています。

加えて、自衛隊の装備やノウハウも当時とは比べ物にならないほど強化・向上しています。たとえば、車両を機内へ搭載可能な大型の輸送ヘリコプターCH-47J「チヌーク」を約60機も運用するなど、空中投下せずとも物資を被災地・被災者へ届けることが可能です。

こうして見てみると、物量投下などが実施されないのには、相応の「理由」があると言えるでしょう。

筆者としては、被災された多くの皆さまに一刻も早く救いの手が差し伸べられるよう強く願うとともに、その方法については関係機関の調整と判断に託そうと思います。

物量投下を行う航空自衛隊のC-130H輸送機(画像:航空自衛隊)。