毎年の誕生月に届く「ねんきん定期便」には、年金の「繰下げ受給」について案内が載っていることをご存じでしょうか。これに目を止め、「もらえるお金が増えるなら利用したほうがいい気もするが、いまいち仕組みがわからない」と困ったA夫妻。牧野FP事務所の牧野寿和CFPに相談したところ、繰下げ受給は利用しないという結論に。いったいなぜなのか、具体的なシミュレーションを交えてみていきましょう。

ねんきん定期便に記載の「繰下げ受給」って、お得なの?

Aさんは現在64歳です。来年65歳からは、「老齢厚生年金」を受け取ることができます。受給見込額は年217万円(月額約18万円)です。

しかし、毎年誕生月に日本年金機構から郵送される「ねんきん定期便」を見て、「年金の繰下げ受給」の案内が載っていることに気づきました。どうやら、これを利用すると受給額が増えるようです。それならぜひとも利用したいところですが、いまひとつ制度が理解できません。

そこで、Aさんは5歳年下の妻Bさん(59歳)を連れて、FPである筆者のもとに相談にみえました。

日本の「公的年金制度」のしくみ

筆者はまず、夫妻がおぼろげだという公的年金制度のあらましをお伝えしたあと、続けて「年金繰下げ受給」について次のように説明しました。

公的年金には、すべての国民が20歳から60歳まで加入する国民年金と、それに加えて会社員や公務員が加入する厚生年金があります。

国民年金は、国民年金保険料を納付した期間により、「老齢基礎年金」が受給されます。10年以上40年間納付すると、満額79万5,000円(月額6万6,250円)を受け取ることができます※ 令和5年度の受給額。

また、厚生年金は、給与と賞与から定められた保険料を給与から天引きされ、その額により「老齢厚生年金」が受給されます。なお、通常「老齢厚生年金」には「老齢基礎年金」も含まれています。

老齢基礎年金と老齢厚生年金はともに、受給は原則65歳からです。老齢厚生年金の平均受給月額は14万7,788円で、老齢基礎年金の平均額は5万7,525円です。

※ 厚生労働省厚生年金保険・国民年金事業の概況(令和5年4月現在)」より。

年金が最大84%増額!「繰下げ受給」のメリット

「年金繰下げ受給」とは、年金を65歳から受給しないで、66歳以降75歳0ヵ月までのいずれかのタイミングまで受給を繰下げる(=遅らせる)ことで、その分増額した年金が受給できる制度です。

※ 昭和27年4月1日以前生まれの方は、繰下げの上限年齢が70歳まで。また平成29年3月31日以前に老齢基礎(厚生)年金を受け取る権利が発生している方は権利が発生してから5年後まで繰下げることができる。

1ヵ月ごとに繰下げることができ、1ヵ月あたり0.7%、年8.4%増額されます。最大75歳0ヵ月まで繰下げると、最大84.0%増額され、その金額の年金を生涯受給することができます。

なお、老齢基礎年金と老齢厚生年金は別々に繰下げ受給ができます。

「繰下げ受給=必ずお金が増える」わけではない

ただし、年金繰下げ受給には次のようなデメリットがあるため注意が必要です。

1. 税金や社会保険料の負担が増える

前年の所得によって納付額が決まる所得税や住民税、また国民健康保険料、介護保険料といった社会保険料は、繰下げ受給して年金が増額すれば、その分納付額が増えることがあります。

たとえば、65歳以上で公的年金以外の収入がない方は、所得税は年金収入が158万円以下なら非課税※1です。住民税も同様におおよそ155万円以下※2であれば非課税です。それ以上の年金受給額になれば課税の対象になります。

※1 たとえば、年金を158万円(①)受給すると、「公的年金等に係る雑所得」の控除では110万円以下はその額が控除できるので0円(②)。また基礎控除は48万円(③)。したがって158万円(①)-110万円(②)-48万円(③)=0円。非課税となる。

※2 金額は自治体ごとに定められているため、各自確認が必要。また、住民税の基礎控除額は43万円。

また、国民健康保険、介護保険の保険料や、病院での診察や介護を受ける際の自己負担割合も所得によって決まるため、こうした負担額も増える可能性があります。

したがって、繰下げ受給をするとたしかに年金の受給額は増えますが、手取り額も同様に増えるとは限りません

2. 加給年金や振替加算が受け取れなくなる

「加給年金」とは、Aさんのように厚生年金加入期間が20年以上の老齢厚生年金受給者にBさんのような配偶者(65歳未満)や子ども(18歳未満)がいる場合に支給される年金のことです。これはAさんの「老齢厚生年金」に加算されます

ただし、Bさんが65歳になり自分の年金を受給するタイミングで停止になります。

※ 配偶者の加算額は39万7,500円(令和5年度の額)。

また、「振替加算」は、昭和61年(1986)4月1日の時点で20歳以上の方が対象です。上記の加給年金受給者の配偶者(Bさん)が65歳になると、配偶者の「老齢基礎年金」に生涯加算されます。

※ 加算額は、配偶者が昭和36年4月2日から昭和41年4月1日生まれは1万5,323円(令和5年度の額)。生年月日により受給額は違う。

加給年金は繰り下げて受給はできないので、もしAさんが老齢厚生年金の受給を繰下げて、その期間中に、配偶者のBさんが65歳になったら、Aさんは加給年金の受給資格を失うことになります。

また、Aさんが66歳から老齢厚生年金と加給年金の受給申請をした場合、老齢厚生年金は繰下げた1年分増額されますが、加給年金は増額されません。

加給年金も受給したいのであれば、「老齢厚生年金」は本来の65歳から受給し、「老齢基礎年金」だけ繰下げ受給するのも一案です。

一方、振替加算も、Bさんが「老齢基礎年金」を繰下げ受給する場合、受給開始までの期間振替加算はできません。その後、受給開始となっても、増額は「老齢基礎年金」にのみ適用され、振替加算分は増額されません。

なお、加給年金、振替加算とも、原則配偶者(Bさん)が20年以上厚生年金に加入していると受給の対象外となります。

「繰下げ受給」を決断する前に確認したい4つのポイント

筆者はA夫妻に、「繰下げ受給を決める前に確認しておくこと」として次の4つを挙げました。

1. 繰下げ期間中(=年金受給前)の支出(生活費など)を、貯蓄や他の収入などで確保できるようにしておくこと。

2. 「特別支給の老齢厚生年金」については、繰下げ受給できない。受給できる年齢になったら別途申請し、受給すること。

3. Aさんが仮に75歳まで繰下げて年金を受給する計画で、不幸にも71歳で亡くなった場合、Bさんの請求に基づきAさんが65歳時点の年金額(増額されていない本来の金額)が一括して「未支給年金」として支払われること。また、請求した時点から5年以上前の年金は時効により受け取れないこと。

4. Bさんが遺族厚生年金を受給する場合、受給額はAさんの65歳の老齢厚生年金の受給額で計算されるため、Aさんが繰下げ受給した分をBさんの受給額に反映することはできないこと。

※ その他、在職老齢年金制度により支給停止される額、障害年金との調整などの詳細は、日本年金機構の「年金の繰下げ受給」を参照のこと。

【シミュレーション】A夫妻が「繰下げ受給」を利用したら…

次に筆者は、Aさんが年金の繰下げ受給を行った場合のシミュレーションをしてみました。

Aさんは60歳で某企業を定年退職後、現在は元上司の個人事務所で働いています。このまま、70歳までバイトとして勤務する予定です。年収は約100万円。貯蓄が約1,000万円。A家の支出は毎月約25万円です。

※1 特別支給の老齢厚生年金(Bさんは結婚するまでは会社員だった)。 ※2 加給年金(39万7,500円)を含む。 ※3 振替加算(1万5,323円)を含む。

Aさんが通常どおり65歳から年金を受給する場合と、受給開始を5年繰下げて(遅らせて)70歳から受給する場合と、10年繰下げて75歳から受給する場合それぞれについてシミュレーションを行いました。結果は下記のとおりです。

まず、Aさんは、60歳の退職後はバイト収入だけで、退職金や貯蓄を取り崩して生活していました。しかし65歳から年金受給が始まれば、家計収支は年間30万円くらいの赤字に収まり100歳くらいまで貯蓄を残す生活が可能です。

しかし70歳まで繰下げ受給をしても[図表2]のように、65歳からの総受給額を上回る年齢は84歳です。現在64歳のAさんの平均余命は20.25年で約85歳ですので、繰下げる効果は限定的です。

※ 厚生労働省令和4年簡易生命表」より。

また、70歳まで確実にバイト収入があっても年金収入がなければ、この5年間で貯蓄が目に見えて減ります。

したがって、Aさんの場合は繰下げ受給の効果は期待できないことがわかりました。

◆まとめ…繰下げ受給には「準備」がいる

筆者がここまで話をすると、Aさんは「むやみに年金の繰下げ受給をしてもいいわけじゃないんですね! あぶなかった……決断する前に相談してよかったです」と安堵されました。

繰下げ受給をする前には、実際にどのくらい手取りが増えるのか調べたり、繰下げる期間の生活費の準備などが必要です。

したがって、「もらえるお金が増えるから」と安易に決断する前に、自分にとってのメリット・デメリットを慎重に見極めることが重要です。ご自分だけで判断が難しい場合は、専門家に相談してみるといいでしょう。

牧野 寿和

牧野FP事務所合同会社

代表社員

(※写真はイメージです/PIXTA)