(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

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1月9日、国民的歌手・八代亜紀が昨年12月30日に亡くなっていたというニュースが日本中を駆け巡った。東日本大震災勃発直後には被災地に駆けつけ、動物保護や女子刑務所慰問など、社会貢献活動にも積極的に取り組む姉御(あねご)肌の気質で、万人に愛された。半世紀にわたり私たちに歌声と笑顔を届けた八代亜紀の軌跡を昭和歌謡研究家の堀井六郎氏がたどりながら、その死を悼んだ。(JBpress)

マスコミ報道の大きさで知る、「演歌の女王」の存在感

演歌の女王」と称された国民的歌手、八代亜紀の訃報が1月10日発売のスポーツ新聞各紙の第1面に大きく掲載されました。年末の12月30日に急速進行性間質性肺炎で急逝、73歳でした。

 生前、「療養中」という情報も流れていましたが、つい先日もBS11で『八代亜紀 いい歌いい話』が再放送されていたので、多くの人にとって衝撃的な訃報だったことでしょう。

 訃報の翌日には、朝日の「天声人語」や産経の「産経抄」等が八代亜紀をさっそく取り上げ、評伝の短期連載を始めたスポーツ新聞もあり、その存在の大きさがうかがい知れます。

 どちらのコラムにも代表曲の一つ『舟唄』が取り上げられていましたが、もしかしたら美空ひばりが歌っていたかもしれなかったこの曲が、レコード大賞と歌謡大賞をダブル受賞した『雨の慕情』よりも、八代亜紀を代表する歌なのかもしれません。

 映画『トラック野郎・度胸一番星』にも出演したように、トラック運転手から女神のように崇められ、絶大な人気を誇った八代。たしかに配送業や各種運転手さんたちにとっては「雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ」では仕事に差し支えるでしょうし、仕事のあとの一杯は「ぬるめの燗(かん)」が疲れを癒してくれたのかもしれません。

キャバレー回りが教えてくれた、感謝の気持ち

 熊本県八代(やつしろ)市で生まれた「歌うこと」と「絵を描くこと」の大好きな少女は、昭和41年(1966)に中学を卒業すると地元のバス会社に就職。

 おそらく、幼い頃に耳にしたコロムビアローズの『東京のバスガール』(日活で映画化もされました)のイメージから、バスガイドになれば仕事として歌も歌えるだろうとの思惑があったのでしょうが、あいにく観光バスの乗車も少なく、3か月ほどで退職します。

 地元のキャバレーで年齢を偽りステージに立ちますが、父親の知人に見つかり勘当同然の叱責、いよいよ腹を据えての歌手修行のため、一人、上京。まだ16歳でした。

 音楽学校で基礎を学び、数年後に銀座のクラブで歌えるところまでステップアップ、十分な収入を得られるようになった八代は、ホステスなど同性からの勧めも多くあって、昭和46年(1971)に『愛は死んでも』で、いよいよテイチクからデビューします。レコード歌手・八代亜紀の誕生でした。されど、ヒットとは縁遠く、レコードをカバンに詰めてのキャバレー回りが始まります。

 10代後半から20代前半にかけての数年間の下積み暮らしが無駄でなかったことは、レコードを買ってくださり、歌を聴きに来てくださったお客様へのご返礼としてのステージ上での笑顔が物語っています。

 たとえ歌の内容が悲しいものであったとしても、お客さんを前にしたときには、「ありがとう」の気持ちを込めて笑顔で歌うことを心がけたのです。

『全日本歌謡選手権』からスター街道へ

 八代がキャバレー回りをしていた20代前半、テレビでは『全日本歌謡選手権』という、プロ歌手も出場できるオーディション番組が話題を呼んでいました。クラブ歌手時代の顔見知りだった男性がすでに10週勝ち抜きのグランドチャンピオンとなり、「五木ひろし」として再デビュー、『よこはま・たそがれ』を大ヒットさせていた頃です。

 満を持して番組に出場した八代が審査員の高い評価を得ると、所属レコードのテイチクも応援に乗り出し知名度もアップ。昭和48年(1973)、ついに『なみだ恋』の大ヒットとなって、これまでの苦労が報われます。

 晴れてここに、五木・八代という、その後の演歌の世界を担う男女スター歌手のそろい踏みとなりました。

 その後の昭和50年代は順風満帆、『もう一度逢いたい』『おんな港町』『舟唄』などを引っさげ、「NHK紅白歌合戦」の紅組トリを10年間で3回務めるなど、まさに紅白の顔でした。

 昭和55年(1980)には『雨の慕情』(詞・阿久悠、曲・浜圭介)で日本歌謡大賞とレコード大賞をダブル受賞、ついに頂上を極めます。

『雨の慕情』のあと、オリコン・ベスト10に入るような大ヒット曲には恵まれませんでしたが、その後も40数年、近年まで毎年新曲をコンスタントに出し続け、トータル110枚のシングル盤をリリースしています。

 八代がリリースしたシングル110枚という数は、『全日本歌謡選手権』出身者として五木ひろしの133枚に次ぐ多さです。『なみだ恋』以来、半世紀にわたり第一線で活躍し、レコード&CDの総売り上げ枚数が女性演歌歌手でトップを維持してきた人気の証でしょう。

鎮魂歌となった最後のシングル盤

 通算110弾目のシングル盤『想い出通り』(詞・悠木圭子)は昨年(2023年)3月15日に発売されていますが、結果的に人生最後の八代節となりました。

 過ぎ去った遠い昔を振り返る女性──。同じ夢を見て幸せだった、あの日。あの人は逝ってしまったけれど、想い出の通りを行けば、きっとまた逢える気がする、という惜別感にあふれたこの歌は、八代自らが作曲したものでした。

 作詞の悠木(87歳)は、八代のデビュー初期の曲や最初のヒット曲であり自らの出世作となった『なみだ恋』(曲・鈴木淳)などを提供、二人は旧知の間柄でした。

 かつて八代が出場した『全日本歌謡選手権』で厳しい審査員として知られた作曲家・鈴木淳(令和3年没)の夫人でもあった悠木が、亡き夫とのことを綴った作品でしたが、八代が急逝した今、八代への鎮魂歌ともなりました。

社会貢献という素顔は両親の教えから

 八代のもう一つの顔として、ボランティアや動物保護、女子刑務所慰問など、社会貢献活動に積極的に取り組んでいた姿を忘れてはいけません。 

 東日本大震災勃発直後、誰もが被災地に二の足を踏んでいたとき、率先して駆けつけ、被災者の心に飛び込んでいったことが思い出されます。

 こうした八代の人生や姉御(あねご)肌気質を考えるうえで、父親・敬光さんの存在が大きく影響していたことは間違いありません。

「浪曲の切なさにジャズミックスした歌」と評された八代の歌声ですが、敬光さんはそれこそハスキーな声で広沢虎造などの浪曲を鼻歌代わりに語り、ギターの弾き語りも上手でした。娘・明代(亜紀の本名)が刺激を受け歌手をめざすようになったのも、父の購入した米国ジャズ歌手、ジュリーロンドンのレコードを耳にしたのがきっかけだったのです。

 敬光さんは絵の才能もあったうえ面倒見がよく、人の役に立つことが好きだったようで、後年、娘の八代がボランティア活動に熱心だったことも、その血脈所以だったのかもしれません。 

「一人では何も出来ない、支えてくれる周りの皆様に感謝を」という生き方は、両親からの教えでした。

 子供のころから絵を描くのが好きで得意だった八代だったので、父親は芸能界に進むよりも芸術の世界に進むことを望んでいたのでしょう。

 二つの才能を持っていた八代が中学卒業後に「歌の世界」のほうを選んだことは、日本国内に限らず、多くの人々を歌の力で楽しませ感動させることになったのですから、これは「歌手・八代亜紀」という人生の選択をさせた見えない力に感謝するしかありません。

人生は閉じれども、歌声は未来永劫!

「80歳まで現役」を希望していた八代でしたが、残念ながらその願いはかないませんでした。

 しかし、「もう一度逢いたい、もう一度聴きたい」という多くのファンの思いが続く限り、その歌声はいつまでも私たちの心の中で響きわたることでしょう。

演歌の女王」の演歌とは「演ずる歌」と説き、「自分は表現者ではなく、歌が描く主人公の気持ちを代弁して歌っているだけ」と言い続け、半世紀にわたり私たちに歌声と笑顔を届けてくれた「演ずる歌の女王」、八代亜紀。

 冥福を祈りつつ、彼女がいちばん大切にしていた言葉を彼女自身に捧げます。

 ──ありがとう。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

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