何歳になっても夢をあきらめない、奇跡と勇気と愛の物語、第3弾
『ミセス・ハリス、国会へ行く』ポール・ギャリコ

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『ミセス・ハリス、国会へ行く』

『ミセス・ハリス、国会へ行く』文庫巻末解説

ハリスおばさんが議員になった頃のイギリス議会

解説
 関東学院大学教授)

 本作品の主人公エイダ・ハリスおばさんは、ロンドン高級住宅街に顧客を多く持つ、通いの家政婦さんである。一九世紀までに比べればだいぶ薄まったとはいえ、イギリスは現在でも階級意識が強い。職業や住居、身なりはもとより、英語の発音ひとつとっても階級によって歴然たる格差が見受けられる。おばさんはそのようなイギリス階級社会でも底辺に近いところにいる、まさに「庶民」「大衆」のひとりであった。
 そんなハリスおばさんが「あんたもわたしも楽しく生きなきゃ」という選挙スローガンで国会議員選挙に打って出るという設定は、当時としても破天荒なものだったはずである。本作品のなかでもそのような情況はところどころでえる。おばさんの顧客のひとりに政界の大物ウィルモットがおり、彼が保守党の大物と取り引きするためにおばさんを東バタシー選挙区(ロンドン)から出馬させることになり、本シリーズのファンの方々にはおなじみの、ベイズウォーターさん、シュライバー夫妻、そしてシャサニュ侯爵といった親友らから「裏の力」を借りて、到底勝てそうにない選挙に挑む。
 物語の細部はみなさまにお読みいただくことにして、ここではハリスおばさんが当選した一九六〇年代前半のイギリス議会の様子についてお話ししていくことにしよう。
 読者のみなさまもご存じのとおり、イギリスは「議会政治の母国」とも呼ばれ、世界的に見ても議会の力が強いことで知られる。現在の議会(パーラメント)の起源となるのは、今から一一〇〇年ほど前の西暦九二四年に始まった「賢人会議」と呼ばれる諸侯らの集まりだった。イングランドではたびたび王位継承争いが起こり、そのたびごとに諸侯たちが集められ、次の王様を決めていたのである。さらに有名な「ノルマン征服」(現在のフランス北西部のノルマンディの領主がイングランド王を兼ねた)により、王が海外遠征へと出かける必要性が増えると、王は遠征費をたびたび諸侯らに「無心」した。
 おかげでヨーロッパの他の国々に比べても、中世イングランドでは王に対して議会の力が強くなり、それが諸侯(議会)の承認なくして、王は勝手に課税や逮捕などできないとする「マグナカルタ(大憲章)」の制定(一二一五年)につながったのである。
 やがて一四世紀ぐらいからは、それまで一院制だった議会が、高位の聖職者と爵位貴族(公侯伯子男爵)からなる貴族院と、中小の地主や都市代表からなる庶民院へと分かれ、イングランドは二院制を採るようになる。ハリスおばさんが当選して入ったのは庶民院であり、ここからは本書の訳語に基づき「下院」と表記することにしたい。
 一七世紀にはこの議会の力を超えた権限を持とうとする王が現れ、二度の革命が生じ、これ以後はイングランドでは議会政治に基づく立憲君主制が定着した。一八世紀初頭に、イングランドは北のスコットランドと合邦し「イギリス」となるが、その頃までに議会内にはトーリとホイッグという二つの党派が現れてくる。これが一九世紀半ばにはそれぞれ保守党自由党へと転じ、いわゆる二大政党制の時代が始まる。一九三〇年代までには、自由党は分裂などで没落し、代わりに労働組合を支持基盤とする労働党が台頭した。
 本書でハリスおばさんは「中央党」から出馬しているが、もちろんこれは架空の政党である。一九六〇年代前半は保守党、後半は労働党がそれぞれ政権を担当していた。しかし本書からも感じ取られるとおり、かつて七つの海を支配する大英帝国と呼ばれたイギリスの威光はもはやなく、海外の植民地は次々と独立し、果ては第二次世界大戦で負けたはずの西ドイツイタリア、日本にまで経済力で追い抜かれ、「英国病」という日本語も登場したのがこの時代のイギリスの現実であった。
 ハリスおばさんは、こんなイギリスをなんとか変えていきたいと真剣に思っていたのであろうが、やはり下院はの世界。そもそも法律ができる過程さえ知らないハリスおばさんが乗り込むには、いささか荷が重すぎたのかもしれない。それでも新人議員として議会の開会式にも臨み、エリザベス二世女王が貴族院の玉座から読み上げる施政方針演説に聴き入ったおばさんであった。
 イギリスでは新会期の冒頭にときの君主が議会にやってくる。その点は日本の国会でも天皇陛下参議院で開会を宣言されているのと同じである。しかしそこは「議会政治の母国」でのこと。日本では首相らがおこなう施政方針演説をイギリスでは君主がおこなっているのだ。もちろん原稿は政府が用意するが、エリザベス女王は九十代を超えた最晩年にいたるまで一・二キロの重い王冠をかぶり、イギリス最高位のガーター勲章のこれまた重いをつけて、長いローブのマントをはおり、この演説をしっかりおこなわれていた。
 また、イギリスの下院はすべて小選挙区制で議席が争われる。一九六〇年代当時の下院は六三〇議席であった。これまた一九世紀前半までは、選挙権は地主貴族階級に事実上は限られ、やがて中産階級や労働者階級にまで拡げられると、収賄行為も増えていった。これを阻止するため、一八八〇年代からは厳格な法律が定められ、選挙資金に上限が設けられるとともに、立候補者本人が買収などしたらその選挙区から二度と立候補できなくなり、選挙運動員が不正を働いても連帯責任で当選が無効になるなどの罰則が科せられていく。
 本書で、アメリカ人のシュライバー氏がベイズウォーターさんからそのような「しくみ」を聞いてとしているのはおもしろい。アメリカでは大統領選挙を筆頭に、連邦議会選挙などでも派手な選挙戦が展開されているのは、読者のみなさまもテレビ等でご覧になっていることだろう。イギリスの下院議員選挙はこれとは対照的に、候補者たちが選挙区に住む人々の家を戸別に訪問し、自身の政策や公約などを訴える「地味」なものなのである。
 他方で、ハリスおばさんが選挙演説で痛烈に批判している「あか」とは、もちろん社会共産主義者のことである。この当時は、世に米ソ冷戦と呼ばれる、アメリカを中心とした民主主義・資本主義主体の西側諸国と、ソ連を中心とした独裁的な社会共産主義を主体とする東側諸国とに分かれ、な抗争を展開している時代でもあった。殊に一九六〇年代前半は、ベルリンの壁構築(六一年)やキューバ・ミサイル危機(六二年)など、アメリカとソ連のあいだでの核戦争の可能性がきわめて高い時代でもあった。(なお、次巻『ミセス・ハリス、モスクワへ行く』で、おばさんKGBからスパイと疑われてさんざんな目に遭う。作中でギャリコはソ連のそんなめちゃくちゃな政治体制を批判しつつも、同時にロシア人の国民性の肯定的な面も描き出している。それは誰しも二面性があり、一面をとらえるだけではその人の全体像をつかんだことにはならない、という意図があったのではないか。本作を読まれた方には合わせて次巻を読むこともお勧めしたい)
 このようにまさに内憂外患ともいうべき状態に置かれていたイギリス議会政治のなかに「あんたもわたしも楽しく生きなきゃ」をひっさげて下院に登場したハリスおばさんの姿は、ともすれば殺伐として他人のことなど思いやれない当時の世相に対する痛烈な皮肉にもなっていたのかもしれない。

作品紹介・あらすじ

『ミセス・ハリス、国会へ行く』

ミセス・ハリス、国会へ行く
著:ポール・ギャリコ 訳:亀山龍樹、遠藤みえ子
発売日:2023年12月22日

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何歳になっても夢をあきらめない、奇跡と勇気と愛の物語、第3弾

ロンドンの家政婦ハリスおばさんは、ある晩、運転手のベイズウォーターさんらと討論番組を見て政治について熱く語る。それを思いの外にほめられ気を良くするが、翌日お得意さんで政界の大物ウィルモット卿にもたっぷり演説したら、選挙に出ないかと誘われ、あれよあれよという間に立候補することに。しかし、実は卿にはあるたくらみがあって…。「あんたも私も楽しく生きなきゃ」の標語(スローガン)で本当に当選できるのか??シリーズ第3弾。解説・君塚直隆

ハリおばさんは、ロンドン高級住宅街に顧客を多く持つ、通いの家政婦さんである。イギリスは現在でも階級意識が強い。おばさんはそのようなイギリス階級社会でも底辺に近いところにいる、まさに「庶民」「大衆」のひとりであった。そんなハリスおばさんが「あんたも私も楽しく生きなきゃ」という選挙スローガンで国会議員選挙に打って出るという設定は、当時としても破天荒なものだったはずである。その姿は、ともすれば殺伐として他人のことなど思いやれない当時の世相に対する痛烈な皮肉になっていたのかもしれない。――君塚直隆(関東学院大学教授)解説より

※本書は、1981年11月に刊行された『ハリスおばさん国会へ行く』(講談社文庫)を、現代向けに加筆修正し、角川文庫化したものです。原題:MRS HARRIS MP

【絶賛の声】
「ミセス・ハリスはフィクションの偉大な創造物のひとつであり、彼女と知り合いだと感じるほどリアルで、本当に不思議な存在だ。彼女の魅力は尽きない」(ジュスティーヌ・ピカルディ)

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本記事は「カドブン」から転載しております

アラカンの家政婦さん、国会議員に立候補!――『ミセス・ハリス、国会へ行く』ポール・ギャリコ 文庫巻末解説【解説:君塚直隆】